1.はじめに
2.理想自己
3.自己認知の複雑性
4.理想自己と現実自己のズレ、自己認知の複雑性について
生涯にわたって人間は悩みを持つ可能性があるが、特に青年期は重大でかつ解決困難な問題が押し寄せてくるために悩みの多い時期である。青年期の悩みは、勉強及び成績・学校生活・友人・性・恋愛・進学・将来・親・家庭・社会・宗教・劣等感・孤独感など多岐にわたる (依田, 1963 ;大西他, 1996 ;佐藤他,1991)。児童期においては不安をもったり苦しむことはあまりないと言われているのとは異なり、青年期においては自我の発見がなされ外界に対して外側に向けていた視線を自らの内的世界に向ける時期でもあり(シュプランガー,1953)、悩みが生じやすくなる。また、悩むことによって否定的にもなりやすくなる。では、そのような様々な悩みや葛藤を経験することで、青年はどのように変化するのだろうか。
悩み否定的になりやすいのは、環境が変化することによって数多くの新たな経験をするからである。経験は、それまで持っていなかったような価値や理想を取り込むこととしても機能し、それまで持っていた自己概念や価値が揺さぶられ自己が否定的になる。新たな価値や理想を身につけた場合でも、現実の自己は思うようにいくことは多くないから、この場合も自己は否定的になりやすい(溝上,1999)。このように悩むということには理想を持つということが深く関わることがわかる。また、青年期では自己の内面に注目しやすくなるので、理想の自分というのは、青年期に悩むことに関連していると思われる。そこで、悩み否定的になるということを理想自己との関連から考えていきたいと思う。
理想自己(ideal self)とは、Rogers(1959)によれば個人が非常にそうありたいと望んでおり、それに最も高い価値をおいている自己概念のことを意味する。つまり、個人が価値をおくもの、目指すものを自己として対象化したものと考えることができる。
これまでの理想自己の研究では、理想自己には自己評価の内的基準としての機能と、自己形成を導く指針としての機能の2つの側面があると考えられている。自己評価の内的基準としての機能では、理想自己と現実自己のズレの大きさが、自己評価、自尊感情と負の関係にあるという結果が出ている(水間,1998など)。現実自己に対して高い水準の理想自己は自己評価の内的基準を高めてしまい、その結果として自分の見た現実の自己は自分がそうありたいという理想の自己とはズレがあるということになり、自分の望むような姿ではないので否定的感情におそわれやすく、現在の自己評価が低下すると考えられる。他にも理想自己を個人の内的な基準とする考え方は、既にJames(1890,1892)においても認められており、Jamesは願望を分母、成功を分子とした現実と可能性の比として自己評価を公式化している。また、自己評価とは個人の現実自己の状態とこうありたいと願う理想自己の状態とのズレの知覚を反映したものである(Rosenberg)といった指摘からも、各個人が自己に対して設定している理想自己が自己評価の在り方を左右する基準として位置づけられていることがわかる。
一方、自己形成を導く指針としての機能という面では、自己概念そのものが形成の過程にある青年期では、理想自己は個人にとって重要なものとして受けとめられ(北村,1972)、それに一致しない理想自己の否定性に直面しながらも青年はその理想自己を捨てきれないでおり、その心性は青年期における自己の否定的様相を深刻化させるが同時にそれを乗り越える力ともなる(星野,1978)と考えられている。また、人は誰しも自分自身の目指す所へ向かって自らを形成していくことのできる、成長し続ける存在である(Rogers,1967;Allport,1968など)。このことからも、理想自己は個人の目標となると考えられる。また、マーティアー(1956)は、達成動機の強い者ほど現実自己と理想自己のズレが大きいことを見いだしており、理論的にも達成動機が強い者ほど自分を高めようという意欲が高く、理想自己を高く掲げ、その結果として理想自己と現実自己のズレが大きくなるとわかる。
では、現実自己とはズレのある理想自己を持っていても否定的になることなく、自己形成意識が高まるにはどうしたらいいのだろうか。つまり、理想自己の否定的側面を上手く抑制して肯定的面を促進させたい。それには、理想とは離れている自分に固執して自分を嫌になることなく、それをバネとして成長していきたいと思えることが大切なのではないか。理想とは離れている自分に固執しにくいということは、自分を色々な側面から見ることができるということにつながってくると思われる。そこで、自己認知の複雑性という概念に注目したい。
自己認知の複雑性は、自己概念が多くの側面に分けられていること、さらにその各側面がはっきりと区別されていることによってとらえられる(Linville,1985)。もし否定的な出来事を経験すると、それにもっとも関係している自己の側面が活性化され、否定的経験によって引き起こされた否定的な思考や感情が、その活性化された自己の側面に色づける。さらに、活性化された自己の側面に関係のある他の自己の諸側面が活性化され、否定的な感情や推論が最初の自己の側面から溢れ出し、他の関係する自己の諸側面についての感情や推論を否定的な色に染めていくが、否定的経験とあまり関係ない自己の側面は影響をほとんど受けないと思われる。ところで自己認知の複雑性は、自己の各側面がお互いに明確に区別されていることを意味するので、自己認知の複雑性が高い人は、自己の一つの側面から他の諸側面への思考や感情の溢れ出しは起こりにくいと考えられている。また、自己のある側面に直接的に影響を与えたとしても、自己認知の複雑性が高ければ、自己概念は多くの側面から成るため、直接的に影響される側面は自己のほんの一部を占めるに過ぎないし、自己の諸側面は明確にしきられているため思考や感情の溢れ出しが起こりにくいのである。
Linville(1985,1987)は、自己概念は複数の領域から認知的に表象されており、認知的複雑性の高い人はそのような領域が豊富で各領域が独立しているのに対し、認知的複雑性の低い人は領域の数が少なく相互依存的であると考え、情報理論(Attneave,1959 小野・羽生訳,1968;Scott,1969)に基づく統計量Hを自己認知の複雑性の指標とすることの有効性を示した。
この方法の具体的手続きでは、まず33個の性格特性語が用意され、被験者はこれらの特性語を自己照合的に分析し、自己の様々な側面(人格、行動、心理状態など)を表すグループをできるだけ多く作成し、それらのグループ名を記述するように求められる。その際、同一の特性語を何度使用してもよいこと、必ずしも全特性語を使う必要はないことが教示される。こうして得られたデータから以下の式(1)によって自己認知の複雑性の指標Hを算出する。
(1)
n:特性語の総数
:グループの組み合わせ各パターンに該当する特性語の数
また、最近、Woolfolk,Novalany,Gara,Allen&Polino(1995)は、自己認知のPositiveな側面とNegativeな側面それぞれについて指標Hを算出し、自己評価や抑鬱傾向との関連を分析している。その結果、自己認知の複雑性は、Linville(1985,1987)らが主張するような抑鬱に対する緩衝機能やストレス耐性の高さと有意な関係を持たないばかりでなく、Negativeな側面での自己認知の複雑性(否定的自己複雑性)の高さは、むしろ抑鬱性の強さを示唆するものであった。また、林ら(1997)でも、否定的自己複雑性が高い人は自尊感情が低い傾向にあることが示唆されている。このことより、自己認知の複雑性は肯定面と否定面に分けて検討する必要がある。他にも、佐藤(1999)の研究では、自己認知の複雑性を情緒価によって肯定的自己複雑性と否定的自己複雑性に区別し、抑鬱並びに日常生活における情緒反応との関連を検討している。そして、肯定的自己複雑性が陰性情緒反応を抑制するという結果が出ている。これらのことから、自己認知の複雑性の中の肯定的自己複雑性が自尊感情と正の関係、否定的自己複雑性が負の関係にあると考えられる。
そして以上のことから、自己認知の複雑性でも、特に肯定的自己複雑性が高ければ、否定的な出来事があっても自分には良いところもあることを想起し、否定的な出来事を経験の影響を和らげ、否定的感情に陥ることなく自尊感情を維持することが可能であると考えられる。そうすると、自己認知の複雑性、特に肯定的自己複雑性の高い人は、理想自己と現実自己のズレに否定的になることなく、理想の自分に向かっていきたいと考えることができるのではないだろうか。逆に、否定的自己複雑性は抑鬱性と関連することからは、否定的自己複雑性が高い人は、否定的出来事があると、よけいに否定的なことを想起し、自己評価が下がってしまうことが考えられる。
そこで、本研究では理想自己と現実自己のズレと自尊感情及び自己形成意識との関連、また自己認知の複雑性と自尊感情の関連を調べることと、理想自己と現実自己のズレと自己認知の複雑性が自尊感情、自己形成意識に与える影響を調べることを目的とする。