恥とは、人の目を気遣い、社会規範を意識できる結果生じる、極めて社会的な感情である。また、恥は、社会的な場面での適切な対応を促す適応的な機能をもっているといえる(菅原,2004)。近年、青年たちの間で「地べた座り」や「ゴミのポイ捨て」といった社会的迷惑行為が増加し、問題となっている。このような社会的迷惑行為が増加している背景の1つとして「恥意識の薄れ」があると言われている。それゆえ、青年による社会的迷惑行為増加の問題を考える上で、恥意識との関連をふまえてみていくことが必要であると思われる。
2.恥意識の定義
(1)恥
私たちは日常生活の中でしばしば「恥ずかしい」と感じることがある。この「恥ずかしい」という感情が恥である。菅原(1998)は、恥は一種の行動監視システムであるとして、「個人が社会的な場に参加することで作動を始め、自己の姿や行動を静かにモニターしているが、一旦、問題点を発見すると、『恥ずかしい』という警告信号を発して行動の抑制や改善を要請するものである」と述べている。
恥を感じる場面は実に多様であり、勢いよく転んだときや、人間違いをしたときなどの失態を演じたときに感じる場合もあれば、人から褒められたときや人前で発表するときなどにも感じる。菅原(1992)はクラスター分析を行い、「恥の意識」には他者からの否定的評価によって生じる「ハジ」と、他者からの肯定的評価によって生じる「テレ」という2つの要素があることを指摘している。
また、ルイス(1997)は恥という感情と「自己」とには深い関係があると述べている。恥は喜び、悲しみなどの一次的な情動ではなく、誇り、罪悪感などといった自己意識的評価を伴う二次的な「自己意識的情動」であると主張する。ルイスの「自己意識的情動モデル」によると、恥を生じさせるのは、その行為がもつ社会的な意味、つまり他者の目であると考えられている。つまり、恥感情は人の目を気遣い、社会規範を意識できる結果、生じる感情であるといえるようだ。
(2)恥の分類 −公恥と私恥−
ところで、恥については文化人類学者であるR.ベネディクトが有名である。ベネディクト(1967)は著書「菊と刀」の中で、「日本は恥の文化である」と述べた。欧米人が自分自身の内面的な罪の意識に基づいて善行を行う「罪の文化」であるのに対して、日本人は他者から嘲笑されないように、他者の目や他者の反応を意識した、外面的な強制力によって善行を行う「恥の文化」であると主張したのである。ベネディクトは、恥とは公の場で嘲られたり、拒否されたりすることによって、あるいは滑稽扱いされている自分自身を想像することによって感じる、反応であると述べている。
しかし、このベネディクトの主張に対し、恥の一面しか捉えていないと指摘したのが作田(1967)である。作田は、恥にはベネディクトが指摘するような、他者からの否定的評価のみを対象とした「公恥」と、それ以外に、理想的自己に照らした「私恥」という2つの側面があるのではないかと述べている。また、井上(1977)も作田を参考に、「公の場での嘲笑や批判が予測される事態と関わる」という「公恥」と、「他者の存在とは直接関係なく、己の不甲斐なさをひとりひそかに恥じる」という「私恥」とに類型化している。有光(2002)は、「公恥」を他律的な恥とし、「私恥」を自律的な恥としている。
また、山下他(1981)は、恥の感情の深さや恥を生じさせる原因などをもとに、恥意識には6つのレベルが存在することを、調査によって確認している。この6つのレベルのうちレベルWの恥が社会や集団、世間という外部からの圧力による行動規制だと考えられ、レベルXの恥が自己の内面化された道徳・倫理にてらして、自己の言動を恥じるという内的な行動規制であると考えられている。このレベルWの恥が、作田や井上の述べる「公恥」に相応し、レベルXの恥が「私恥」に相応するといえる。他にも永房(2003)が恥の分類を行った結果、「公恥」に相応する「同調不全」、「私恥」に相応する「自己内省」という因子を取り出している。つまり、恥には「公恥」と「私恥」のように2つの側面があると考えることができる。
3.社会的迷惑行為の定義
社会的迷惑行為について、斉藤(1999)は「行為者が自己の欲求充足を第一に考えることによって、結果として他者に不快な感情を生起させること、またはその行為」と暫定的に定義している。また、松井(2004)は「犯罪、違法行為ではないが、他者が迷惑や、不快を感じるような行為」を社会的迷惑行為としている。これらが述べる「他者」とは特定の人を指すというよりは、同じ社会に住み、相互作用する可能性のある人たちすべてを含むといえる。よって、友人などの特定の関係内で起こる迷惑行為である「対人的迷惑行為」(小池,2004)とは区別されるべきだろう。
また、この社会的迷惑行為は、犯罪行為や違法行為とは異なり、明確な規定や罰則が定められているわけではない。しかし、社会的には望ましくない行為であり、行わない方がよいと考えられる行為である。
近年、青年らの間で「車内での飲食」や「道ばたや電車の床に座る」といった行為が見られるが、これらは犯罪行為や違法行為でもなく、他者の利益を明確に侵すような行為でもない(菅原,2005)。しかし、「日本民営鉄道協会」によって実施された「電車内の迷惑行為ランキング」(2004)で上位に挙げられていることからも、世間では望ましくない行為、迷惑な行為と思われていることがわかる。そのため、このような行為は「社会的迷惑行為」といえるだろう。また、「人が並んでいる列に割り込む」などといった、他者の利益を侵すような行為も「社会的迷惑行為」といえる。
以上のようなことから、本研究では、社会的迷惑行為とは「犯罪、違法行為ではないが、特定の人だけでなく多くの人が『迷惑だ』、『不快である』と感じるような行為」をすべて含むものとする。
これまでの社会的迷惑行為研究は、行為を認知する側から検討したものは多少あるが、行為者としての側面から検討したものは少ない。吉田他(2000)は、「社会考慮」や「信頼感」と迷惑認知、経験頻度との関連を行為ごとで調べたが、迷惑認知との関連については確認されたものの、経験頻度との関連は確認されなかった。このことから、社会的迷惑行為を行うことに関する要因についての検討が必要であることが示唆されている。この要因の1つとして考えられるのが、「恥意識」ではないだろうか。有光(2005)が、青年の問題行動が増加している背景の1つとして、「恥の文化」の喪失があると述べていることからも、社会的迷惑行為の増加には恥意識が影響していると思われる。
4.社会的迷惑行為に対する恥意識と経験頻度との関連
(1)社会的迷惑行為に対する恥意識
実際に、青年らは社会的迷惑行為に対して恥意識を持っていないのだろうか。社会的迷惑行為に対する恥意識について、ベネッセ教育開発センター(1999)が高校生の男女を対象に、路上や電車の中で地べたに座ったり、飲食をしたりすることに対しての恥ずかしさについて尋ねている。その結果、道や駅前の広場に座ることや電車内で飲食をすることに対して「恥ずかしくない」と回答した者は5割を超えていた。このように、高校生に限ってではあるが、これらの行為に対して恥を感じていない者は半数もみられている。
(2)これまでの社会的迷惑行為に対する恥意識と経験頻度の関連に関する研究
では、恥意識と経験頻度との間には関連が見られるのだろうか。
菅原(2005)は、地べた座りを恥ずかしいと感じない人ほど、地べた座りの経験が多いといった関連性はあるのかを明らかにするために高校生と大学生を対象に調査を行っている。その結果、地べた座りを多く行っている人ほど、その行為を「恥ずかしい」と感じていなかった。そして、「地べた座り」と「電車内での飲食や化粧、着替え」などとは高い相関があり、1つの迷惑行為を行う人は他の迷惑行為も行うということも示された。
また、薊他(2005)は、7つの迷惑行為に対する経験頻度と、恥意識と罪悪感との関連について調べている。その結果、恥意識の高い人ほど経験頻度は低いという関連がみられ、一方で罪悪感との関連は明確に示されなかった。
これらの結果から、社会的迷惑行為に対する恥意識と経験頻度との間には関連があると考えられる。ただし、これらの調査では「公恥」、「私恥」といった2つの側面との関連についてはみておらず、恥のどのような部分が経験頻度に影響しているのかが明確ではない。恥には「公恥」と「私恥」という2つの側面があると考えられていることからも、「私恥」と「公恥」とを分けて考えるべきだろう。そして、そのどちらが経験頻度に強く影響をしているのかを調べることによって、恥のどのような部分が社会的迷惑行為の行動抑制につながるのかについて明らかにすべきだと思われる。
そこで、本研究では井上(1977)や山下他(1981)の分類、定義を参考に、「公恥」を「社会や集団、世間などの外側からの圧力を感じ、『人の目』を気にすることによって生じる恥」、「私恥」を「内面化された社会規範に基づき、自身の行動が『人に迷惑をかけること』だと認知した結果生ずる、自身に対して感じる恥」と定義づけ、社会的迷惑行為に対するこれらの恥意識と経験頻度との関連を調べることにする。そして、この両者を含めたものを、本研究での恥意識とする。なお、この恥意識には肯定的評価によって生じる「テレ」は含んではいない。
(3)迷惑行為増加の背景にある恥意識
社会的迷惑行為に対しての恥意識と経験頻度との関連については、恥意識をもっている人ほど経験頻度が低くなることがわかっている(菅原,2005)。しかし、だからといって迷惑行為を行っている人たちに全く恥意識がないというわけではないようである。菅原は、迷惑行為を行っている青年たちが、「迷惑行為を行わないことに対する恥意識」を強くもっているのではないかと指摘する。菅原(2005)が行った「地べた座り」の調査で、地べた座りをする青年たちは2つのタイプに分類できるとしている。1つは「確信犯」として堂々と座る人々であり、彼らは恥ずかしいと感じないために行う。そして、もう1つは「しかたなく座るタイプ」であるという。このタイプは、地べたに座ることは恥ずかしいと感じるが、友人たちが皆行っている中1人だけ立っているほうが恥ずかしいと考えているようである。
また、薊他(2005)は、「仲間」という特定の集団内での規範意識を強くもっている者は、「友人がやっているから自分も行わないと恥ずかしい」という特殊な規範への同調を高めているため迷惑行為を行うのではないかということを示唆している。
「恥をかきたくない」という気持ちが不適切な同調を生み出すこともある(有光,2005)とされていることからも、仲間集団が迷惑行為をしているときに、仲間に対してこのような恥意識を持つことによって、一緒に迷惑行為を行う可能性は十分に考えられる。
したがって、「仲間の目を気にすることによって生じる、社会的迷惑行為を促進させる恥」という特殊な恥意識が、実際に青年たちの間でみられ、社会的迷惑行為の増加と関連しているのかということについても検討すべきであろう。
(4)本研究での恥意識についてのまとめ
以上より、青年の社会的迷惑行為に対する恥意識と経験頻度との関連を調べるためには、3つの恥意識を測定する必要があると思われる。1つ目は、「私恥」という「内面化された社会規範に基づき、自身の行動が『人に迷惑をかけること』だと認知した結果生ずる、自身に対して感じる恥」である。そして2つ目は「社会や世間という外側からの圧力を感じ、『人の目』を気にすることによって生じる恥」である。これを本研究では、「社会公恥」と定義する。これらの恥意識は、社会的な場での不適切な行為を抑制する働きがあると考えられる。よって、社会的迷惑行為に対して、「私恥」、「社会公恥」といった恥意識を感じている人ほど経験頻度は低いと思われる。これは、どちらか一方の恥意識が、もしくは両方の恥意識が強く影響しているからであろう(これを、本研究での仮説1-aとする)。
そして3つ目の恥は「仲間という特定の集団からの圧力を感じ、『仲間の目』を気にすることによって生じる恥」である。これを本研究では「仲間公恥」と定義する。この恥意識については、菅原(2005)が述べるように青年たちの迷惑行為増加の背景に潜む恥意識であると考え、本研究では「仲間が社会的迷惑行為を行っているとき」という前提での恥として考える。この恥意識を強く感じるほど、仲間が迷惑行為を行っているときに同じ行動をとろうとするため、経験頻度が高くなるであろう(これを本研究での仮説1-bとする)。
5.誰の目が気になるのか
(1)恥の対象
ところで、「人前で転ぶ」や「人間違え」などといった恥を感じるような失敗を、突然してしまったときに、私たちは誰の目を気にするのだろうか。
井上(1977)は私たちが恥を覚えやすい対象は「世間」であると指摘している。かつて、日本人の人間関係は、ミウチ、セケン、タニンという3つの領域から構成されてきた(井上,1977)。このうち、ミウチとは家族などの親密な人々、タニンとは遠方の人々や旅先の人など生活上の利害関係がない人々、セケンとは中間的な位置づけである近所の人や日常生活で会う人々である。「ミウチ」のように親密な相手でもなく、「タニン」のような無関係な相手でもない、「セケン」の目を最も気にするというのである。
ところで、友人というのは親密な相手だと考えられることから「ミウチ」に属するはずであり、最も恥ずかしさを感じにくい相手であるとされるだろう。しかし、現代青年の友人関係の特徴として同調性は高いが、心理的距離は大きいことが指摘されている(上野他,1994)。ことから、青年期の「友人」とは、行動を共にするが、親密な相手とはいえない間柄の人を指すとも考えられる。これは、友人が「ミウチ」から「セケン」という位置づけへと変化しつつあるということではないだろうか。そして「セケン」も、共同体社会の崩壊とともに「タニン」へと変わりつつあると考えられている(菅原,2005)。このことから、恥を感じる際に「セケン」の目が気になり、「ミウチ」の目は気にならないという井上の指摘は、現代青年には必ずしも当てはまらないと考えられる。
また、羽淵(2002)は、宮台(1996)が「仲間以外は皆風景」モデルを提示しているとし、現代青年が気になる相手とは、仲良くしている仲間だけであると述べている。このことから考えると、青年は、友人の目を最も気にしているのではないかと思われる。しかしながら、従来からある「セケン」の目が最も気になる人も当然いると考えられ、友人の目を最も気にしている人ばかりではないだろう。実際に、大学生においては恥行為をする際に、気になる対象に「友人」を挙げる者と「その場にいる、知らない他者」を挙げる者とが同じ割合で存在している(永房,2004)ようである。
(2)恥の対象と迷惑行為の経験頻度との関連
このように、恥を感じるような失敗を突然してしまった場合には、「友人」の目を気にする人と「その場にいる知らない人々(世間)」の目を気にする人とがいることが考えられる。では、どちらの目を気にするのかによって、社会的迷惑行為の経験頻度の高さにも違いが見られたりはしないのだろうか。
このことについて検討をした研究は、今日に至るまで見当たらない。しかし、友人が迷惑行為を行っているときに同じような行動をとる者が、友人からの評価を気にし、「友人と同じことをしないと恥ずかしい」と感じているとされる(菅原,2005)。したがって、社会的迷惑行為以外の日常生活のあらゆる場面でも、友人から拒否されないように、笑われないように、「友人」の目を気にして行動しているのではないかと考えられる。そのような人は、恥場面のように失態を演じてしまった場合にも無意識のうちに「世間」の目よりも「友人」の目を気にしてしまうのではないだろうか。
つまり、恥場面で無意識のうちに「友人」の目を気にする人は、あらゆる場面でも友人からの評価を気にしていると考えられる。そして、友人が迷惑行動を行っている際にも、友人と同じ行動をとらなければ非難の目を向けられ、恥をかくという気持ちから、同じ行動をする可能性があるだろう。よって、恥場面で「世間」の目を気にする人に比べて、「友人」の目を気にする人のほうが社会的迷惑行為を行う際に友人と同じ行動をとりやすいということを本研究での仮説2とする。
6.本研究の目的のまとめ
以上より、本研究では、青年たちの恥意識と社会的迷惑行為の経験頻度との間にどのような関連がみられるのか、また恥意識のどのような部分が迷惑行動に影響しているのかについて明らかにしたい。
本研究では、調査対象を大学生とする。社会的迷惑行為は、大学生にも蔓延しているとされ(菅原,2004)、実際に大学内だけを見ても、「地べた座り」や「ゴミのポイ捨て」などの迷惑行為があらゆるところでみられ、大学生の社会的迷惑行為も問題となっていると考えられるためである。
そこで、大学生を対象に、社会的迷惑行為の経験頻度の低さには「私恥」と「社会公恥」が影響しているのか、どちらの影響のほうが強いのかについて、また、社会的迷惑行為の経験頻度の高さに「仲間公恥」が影響しているのかについて検討する。そして、現代青年の社会的迷惑行為に対する恥意識と経験頻度との関連について明らかにすることを第1の目的とする。
仮説についてまとめると、以下の通りである。
社会的迷惑行為に対して「私恥」、「社会公恥」といった恥意識を感じている人ほど経験頻度は低いと思われる。これはどちらか一方の恥意識が、もしくは両方の恥意識が強く影響しているからだろう。 (仮説1-a)
また、社会的迷惑行為を友人が行っているときに「仲間公恥」を感じている人ほど、友人が迷惑行為を行っている際の経験頻度は高くなるであろう。(仮説1-b)
さらに、社会的迷惑行為に対する恥意識と経験頻度との関連だけではなく、恥場面で無意識に「友人」の目を気にするのか、「世間」の目を気にするのかによって、友人と一緒にいるときの社会的迷惑行為の経験頻度に違いはみられるのかについても調べる。そこで、恥場面で無意識のうちに誰に焦点化しているかということと、社会的迷惑行為のような社会的に望ましくない場面でとる行為との間に、関連がみられるかどうかについても検討することを第2の目的とする。
仮説は以下の通りである。
恥場面で「世間」の目を気にする人に比べて、「友人」の目を気にする人のほうが社会的迷惑行為を行う際に友人と同じ行動をとりやすいだろう。友人が迷惑行為を行っているときには同じように迷惑行為をし、友人が行っていないときにはしないだろう。(仮説2)
本研究の仮説を検証するにあたって、まず予備調査を実施した。