問題・目的




1.はじめに

2.自己複雑性

3.反すう傾向

4.精神的健康

5.本研究の目的


1.はじめに


 私たちは日常の中で様々なストレスや、気持ちが落ち込んで嫌になるような否定的な出来事を経験することがある。それによって、一日中気分が落ち込んでいることも、ひどく傷ついて何もしたくなくなることもある。しかし、そのような否定的な出来事の経験が、すべての人に不適応的な状態をもたらすわけではない。否定的な出来事を経験するなかで、困難な状況に一時的には陥っても、困難に向き合い、その経験を成長の糧として捉えることができる人もいる。このように、日常生活での様々な出来事が情緒反応に及ぼす影響には個人差があるのではないだろうか。

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2.自己複雑性


 このような出来事が情緒反応に及ぼす影響の個人差に注目した研究の1つに、自己に関する知識の認知的な構造である自己複雑性(Self Complexity; 以下SC)(Linville, 1985)の研究がある。SCは、自己知識を構成する側面数とそれらの側面の分化度という2つの要素で定義される(Linville, 1985)。自己知識は多様な認知的構造によって表象されており、その構造を自己の側面とここでは呼ぶ。分化度とは、側面間における自己知識がどれだけ区別されているかの程度である。それぞれの側面が異なる特性、事柄、感情などの認知的要素で構成されていることによって側面間は区別される。


 このような特徴を持つSCは、さまざまな自己の側面についての思考や感情に及ぼす影響の大きさを決定づける(Linville, 1985, 1987)。否定的な出来事を経験すると、それにもっとも関連している自己の側面が活性化され、否定的な出来事の経験によって引き起こされた否定的な思考や感情が、その活性化された自己の側面に広がる。さらに、活性化された自己の側面に関係のある他の自己の側面が活性化され、否定的な思考や感情がはじめに活性化された自己の側面から溢れ出し、他の自己の側面までも否定的な思考や感情で染めていく。けれども、否定的な経験とあまり関連のない自己の側面は、ほとんど影響を受けることはないであろう。これがLinville(1985, 1987)の活性化拡散過程説である。


 この活性化拡散過程説から、SCの高い者は、それぞれの側面間がはっきりと分化されているためこの活性化拡散過程が起こりにくいとされている。なぜならばSCが高い者にとって、出来事によって引き起こされる思考や感情は出来事に関連するある側面に限定されるため、残りの多くの側面は影響を受けないままであるからである。そして結果として抑うつを緩衝することが示されている。このSCモデルでは、自己知識の認知構造の側面間にはいわば「壁」が存在し、その「壁」が思考や感情の活性化拡散を防ぎ得ると考えている。しかし、このような緩衝効果が得られるには「壁」が出来事の影響を抑制する働きだけでなく、むしろ出来事の影響を受けない側面による積極的な働きも見ていく必要があると考える。


 そこで本研究では思考や感情の活性化拡散を選択的に促進・抑制する2つの働きがあると捉えた「膜」モデルを提案する。そしてSCを肯定的な自己知識の認知構造である肯定的自己複雑性(Positive Self Complexity; 以下PSC)と、否定的な自己知識の認知構造である否定的自己複雑性(Negative Self Complexity; 以下NSC)の2つに分けて対応させると以下のようになる。PSCが高いほど自己に関する肯定的な情報を活性化拡散しやすく、否定的な情報は活性化拡散しにくい。そのため否定的な出来事による影響は小さく、抑うつが緩衝されると予測される。一方で、否定的自己複雑性が高いほど自己に関する否定的な情報を活性化拡散しやすく、肯定的な情報は活性化拡散しにくい。そのため否定的な出来事による影響は大きく、抑うつが促進されると予測される。  

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3.反すう傾向


 さらに本研究では、出来事が情緒反応に及ぼす影響をSCという個人の1つの特性だけに帰属するのではなく、関連する要因によるその特性の機能の違いを検討したい。つまり、SCの「膜」の働きを促すような、思考や感情の活性化拡散の生じやすさを規定する要因を想定することで、SCと抑うつとの関連がより明確に検討できると考えられる。そこで本研究ではSCに加えて抑うつとの関連が深い反すう傾向に注目する。伊藤・上里(2001)は、反すうの目的や原因や内容は限定せずに、「その人にとって、否定的・嫌悪的な事柄(ネガティブなこと)を長い間、何度も繰り返し考え続けること」をネガティブな反すうと定義し、抑うつとの関連を検討している。ネガティブな反すうにはネガティブな反すう傾向とネガティブな反すうのコントロール可能性という2つの下位因子があるが、このうちのネガティブな反すう傾向の方が抑うつと強い関連があり(伊藤・上里,2001)、うつ状態をもたらす要因であることが示唆されている(伊藤・上里,2002)。本研究においては文章理解のしやすさのために、ネガティブな反すう傾向を以後反すう傾向と記述する。


 反すうすることによって否定的な情報が活性化される頻度が高まり、SCの側面間の「膜」が否定的な情報を活性化拡散させる働きをさらに促進するであろう。NSCが高い場合、様々な否定的な側面を有しているために否定的な思考や感情を得やすく、反すうすることでさらに否定的な情報が活性化拡散され、抑うつがより促進されると予測し得る。一方、PSCが高い場合、肯定的な情報を活性化拡散し否定的な情報の活性化拡散を抑制してきたが、反すうすることで否定的な情報が活性化される頻度が高まり、否定的な情報も拡散されると予測し得る。だからといって抑うつが促進されるのではなく、反すうすることでかえってその度に肯定的な情報が繰り返し活性化拡散されて抑うつが緩衝されると考える。なぜならばPSCがストレスフルな出来事に対する否定的な感情的反応を和らげると共に、積極的な対処行動を取ることが示唆されているからである(Dixon & Baumeister,1991)。さらに、反すう傾向が高い場合には抑うつの程度は高まると予想されるが、PSCが高いほど様々な肯定的な側面を有しており肯定的な思考や感情を得る可能性も高いため反すう傾向による影響は小さく、SCが小さいほどその影響は大きくなると考える。

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4.精神的健康


 精神的健康を測定する概念として、抑うつと主観的幸福感を扱う。先行研究においても抑うつとの関連が多く検討されている。本研究では、一般学生における軽度の抑うつ状態に焦点を絞る。ストレスが社会問題となっている現在においては、大学生であれ日常において否定的な出来事を経験して、落ち込み何もしたくなくなることがある。そのような状態が長い間続き、軽度の抑うつ状態に至ることは誰にでも経験しうることだからである。主観的幸福感とは、感情状態を含み、家族・仕事などの特定の領域に対する満足や人生全般に対する満足を含む広範な概念である(Dinner, Suh, Lucas, & Smith, 1999)。近年、社会指標のような客観的指標だけでなく、個人の主観的判断や心理的側面を重視する必要が叫ばれ、主観的幸福感が問題とされるようになっている(石井, 1997)。本研究においても、従来の精神的不健康の指標である抑うつの測定だけでなく、より積極的な精神的健康の指標である主観的幸福感を扱うことで、自己複雑性が精神的健康に及ぼす影響をより深く検討できると考える。

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5.本研究の目的

 本研究ではLinville(1985, 1987)の自己複雑性モデルを基に新たに「膜」モデルを提案し、自己複雑性の側面間の「膜」は思考や感情の活性化拡散を選択的に促進・抑制する2つの働きをすると捉える。そして本研究の目的は、肯定的自己複雑性と否定的自己複雑性、及び反すう傾向が精神的健康に及ぼす影響を検討することである。
 仮説を以下に示す。

1. 反すう傾向が高い場合、反すう傾向が低い場合よりも抑うつは高く、肯定的自己複雑性が低いほどその差は大きいであろう。

2. 反すう傾向が高いほど抑うつが高く、さらに否定的自己複雑性が高い方が低い方よりも抑うつが高いであろう。

3. 反すう傾向が低い場合、反すう傾向が高い場合よりも主観的幸福感は高く、肯定的自己複雑性が低いほどその差は大きいであろう。

4. 反すう傾向が高いほど主観的幸福感が低く、さらに否定的自己複雑性が高い方が低い方よりも主観的幸福感が低いであろう。

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