問題と目的

はじめに

 私たちは日常生活で人や行動を評価する際に、「ふつう」という言葉をよく使う。「ふつう」であるということは、他の多くの人たちと同じであることを意味しており、他者と良好な関係を形成し維持するのに役立つのではないだろうか。本研究では、自分自身を「ふつう」であると認知する(以下、「ふつう」認知)ということに着目し、それが適応に及ぼす影響を検討する。



「ふつう」という言葉

 社会言語学によればある言語においてある言葉が存在し日常的に頻繁に使用されるということは、その文化において、それが他とは区別すべき重要な概念であることを意味するという(鈴木,1973)。日本では「ふつう」という言葉は人や物や状態を形容するために広く日常的に使われていることから、日本人の物事の判断にとって重要な概念であると考えられる。
 辞書によれば「ふつう」は良い意味でも悪い意味でも使われる。たとえば日本で一般的に使用されている類語時点・反対語辞典は、「ふつう」の類語として「一般」「通常」「並み」「尋常」などの中立語、「ありふれた」「平凡」というやや否定的な語、「ノーマル」「尋常」というやや肯定的な語があげられている。
 大橋・山口(2005)は、「ふつう」という言葉の心理学的な意味を実証的に吟味している。日本人は自分の「ふつうさ」を過大評価する傾向がある(Ohashi & Yamaguchi,2004)ことから、人を形容する言葉としての「ふつう」には望ましい意味が付与されていると考え、「ふつうであること」は好意および望ましい特性と結びついて捉えられていると仮説を立て検証している。その結果、人物を形容するときの「ふつう」という言葉には望ましい意味が付与されていることを明らかにしている。



日本における「ふつう」認知の意味

 日本では「ふつう」という言葉が重要な概念であるが、自分を「ふつう」であると認知することはどのような意味をもつのであろうか。「ふつう」認知には、Markus & Kitayama(1991)が主張する文化的自己観が関わると考えられる。文化的自己観とは、ある地域、グループ内で歴史的に作り出され、文化的に共有されてきている通念、モデル、メタセオリーとしての自己であり、自己についての認識に焦点を当てて文化差を論じるものである。
 欧米文化では自己を他の人々から切り離された存在だとみなす、相互独立的自己観が優勢である。そして自己の望ましい特性や他者と区別しうる特性を自己の特徴として重視するとされる。これに対し、日本をはじめとする東アジア文化では自己は本質的に周りの人々から切り離すことができない存在だとみなす、相互協調的自己観が優勢であり、他者との協調関係を志向するとされている。北山ら(Kitayama &Markus, 1994)は、日本人においては、自分を他者よりも優れていると考える自己高揚的認知は主観的幸福と関係がなく、自己を平均的だとみなす控えめな認知が人間関係の調和を保つ文化的役割を担っている可能性があると指摘している。
 このことから、周囲の人たちよりも優秀であることに価値の置かれる欧米とは異なり、日本では周囲との調和を保つために、他の人たちと同じであること、「ふつう」であることに重きを置いていると考えられる。集団に受け入れられることを重視する日本人について、自分を「ふつう」だと認知することが適応につながるか検討する必要性があると思われる。



「ふつう」認知と適応

 「ふつう」認知が自分にとって好ましい状態であるかどうかを検討した研究を以下に示す。自分は大多数の他者と変わってはおらず「ふつう」であると感じており、さらにそれはよいことだと評価している人は、「ふつう」と認知すると自己好意の側面で自尊心が高まる、すなわち自分自身に対して好意を抱く傾向があることを大橋・針原(2000)は幅広い年齢層の日本人を対象とした調査を通じて示している。さらにこの調査では「ふつう」であることに価値を置いていない個人では、自分を「ふつう」と認知することは自己好意はもとより自己能力の側面でも低い自尊心と相関していることも示されている。
 この大橋・針原(2000)の研究では、自己の全体的な評価として「ふつう」であるかどうかを尋ね、それが自己能力および自己好意と関連があるかを検討している。しかし、人は自分というものを意識する時、「自分が好き」「自分に自信を持っている」などのように漠然と全体としてとらえられている自己の意識だけでなく、「自分はスポーツが得意である」「自分は人に対して優しくない」など自己を構成する諸側面に分かれた認知像も意識されている(山本・松井・山成,1982)。自分を「ふつう」だと認知とすることを検討するにあたり、自己の様々な側面をふまえる必要がある。
 この自己の多面性を考慮し「ふつう」認知を適応的な側面から探索的に検討しているのが佐野(2004)の知見である。その結果、全般的に「ふつう」認知は適応的ではないということが示唆されている。しかし自己認知の多面性をふまえると、適応的な側面とそうでない側面があると示唆され、社交能力といった他者との関係性に関わる側面において、ふつうであると認知する人ほど孤独感が低いという結果となっている。これは周囲との調和を保つことを重視する従来の自己観を支持している。



ポジティブ・イリュージョン現象に焦点を当てた自己認知と適応

 ポジティブ・イリュージョンに焦点を当て、自己を平均的であると認知することが適応につながることを示した研究がある。ポジティブ・イリュージョン(Taylor & Brown,1988)とは、自己高揚的動機に基づく認知バイアスで「実際に存在するもの・ことを自分に都合良く解釈したり想像したりする精神的イメージや概念」と定義され、精神的健康に結びつくとされている。
 外山・桜井(2000)は、日本人におけるポジティブ・イリュージョン現象を取り上げ、自己認知と精神的健康の関連を検討している。ポジティブ・イリュージョン(ネガティブ・イリュージョン)現象を、集団において多数の人が他者(平均的な人)に比べて自分の方が上である(下である)とみなす現象として扱っている。自己の側面の中でポジティブ・イリュージョンが見られた側面においては、自己を平均的だと捉える人は自己卑下的な認知をする人と同じくらい抑うつ傾向が高いことが示唆されている。一方、ネガティブ・イリュージョンが見られた側面においては、自己を平均的だと捉える人は自己高揚的な認知をする人と同様に精神的に健康であることが示唆されている。
 ネガティブ・イリュージョンが見られた側面で自己を平均的だと捉える人は精神的に健康であったという外山・桜井(2000)の結果より、以下のことが考えられる。自己を平均的だと捉えることは、自分は中間に位置しており多数の人と同じであると捉えていると考えられ、自分を「ふつう」であると認知している可能性がある。よって、外山・桜井(2000)をもとに自己の側面を選定しなおすと、「ふつう」認知と適応の関連を検討した佐野(2004)で扱われた自己の側面以外にも「ふつう」認知が適応的となる側面があると考えられる。そこで本研究では、ポジティブ・イリュージョン(ネガティブ・イリュージョン)が見られた側面に基づいて選定しなおした自己の諸側面における「ふつう」認知と、適応との関連を検討することを目的とする。



適応

 適応の指標としては、自己肯定意識と孤独感を用いることにした。
 平石(1990)は、青年期における心理学的健康を問題とし、彼らの自己意識に存在する、健康−不健康、対他者−対自己という2つの軸から検討している。本研究では、自己肯定意識を青年期の適応感を測定する尺度として使用する。
 ラッセルら(1980)によると、孤独感は「人間関係の中でわれわれがこうありたいという願望があるときに、その願望が十分に満たされなかったり、逆に心理的な満足感を低下させるような結果が生じたときに感じる感情の一つ」と定義されている。日本人の自己観をふまえると、適応を測る上で他者との関係性に対する満足感が重要になると考え使用することにした。



本研究の目的

 「ふつう」には他者と比べて特別に優れていないという否定的な意味も含まれているにもかかわらず、他者との協調関係を志向する日本においては、自分を「ふつう」であると認知することが適応につながる可能性がある。しかし、日本人にとって自分を「ふつう」だと認知することが精神的に望ましいかどうかを検討した研究はほとんどない(大橋・針原(2000)・佐野(2004))。「ふつう」認知が個人が生きていく上でどのような意義をもつのか、さらに検討する必要があると考えられる。
 本研究の第一の目的は、自己のさまざまな側面における「ふつう」認知と適応との関連を検討することである。外山・桜井(2000)の研究から、佐野(2004)の研究で指摘されている自己の側面(社交能力)以外に自分を「ふつう」だと認知することで適応的となる側面がさらに存在すると予想される。そこで自己の側面を選定し直し、佐野(2004)と同様に自己の諸側面での「ふつう」認知の程度が適応(自己肯定意識および孤独感)に及ぼす影響を検討する。
 第二の目的は、自己のさまざまな側面における「ふつう」認知およびその側面における重要性と適応との関連を探ることである。山本・松井・山成(1982)によると、自己認知の諸側面の中には自己評価が決定されてしまうような重要な側面と、自己評価には大して影響のない側面があることが指摘されている。佐野(2004)では自己の多面性を考慮し「ふつう」認知と適応の関連を検討しているが、自己の側面の重要性との関連については見られていない。そこで、自己の諸側面における「ふつう」認知と適応の関連を検討するとともに、それぞれの側面の重要性がどう関わるかも検討する。
 本研究では、世間で重要視されている・周囲から求められている側面とそうでない側面において、自分が「ふつう」であると認識することが適応に及ぼす影響を検討するために、自己の諸側面について世間一般に重要である程度を尋ねることとする。世間一般に重要性が高いと評価される側面、つまり社会から求められている側面は、他者から目が向けられやすいため、「ふつう」であるより優れていることが求められると考えた。よって、重要性の高い側面においては、自己を「ふつう」だと認知する人は適応的とはならないと予想した。一方、世間一般に重要性が低いと評価される側面、つまり社会から求められていない側面は、特に優れている必要がなく「ふつう」であることは周囲から受け入れられると考えた。よって、重要性の低い側面においては、自己を「ふつう」だと認知する人は適応的となると予想した。