問題と目的



移行対象とは

乳幼児たちは、しばしば毛布やタオルケット、ぬいぐるみなどに強い愛着を示す。食事をするときもどこかに出掛けるときも寝るときも絶えずそれを手放さない。
洗濯をしてしまうと泣きわめくということや、なかなか寝付けないときにそれを持つとよく眠れるということもしばしばである。
イギリスの精神分析家であるWinnicott(1953)はこのように幼児が肌身離さず持ち歩く毛布やぬいぐるみなどの対象で、それがないと著しく不安になるものに移行対象(transitional object)という術語をあてた。そしてそれが子の情緒、認知発達面において発達的にきわめて重要な機能を果たし得るということを強調した。

移行対象の役割

移行対象は、就眠時や母親の不在、旅行時、あるいは未知の人物や環境との遭遇といった乳幼児にとってのストレスフルな状況にあって、母親の乳房やそのものを象徴的に代理し、その子の不安や緊張を癒し、落ち着かせ、慰めるものとして機能する(遠藤, 1989)。

また、遠藤(1991)は、移行対象発現の有無を分けるのは、母子の関わりの中の多様な要因が交絡して規定する、その子にとってのストレスの相対的多少であり、ストレスフルな状況にさらされることが多い場合に、移行対象は適応の術として必要になると述べている。
例えば、遠藤(1990)は、子の欲求に応じた母乳哺育で、それが安定して長期に及び、母親による添い寝が長期に渡って持続される時、子の移行対象への愛着がかなり生じにくくなるということを実証的に明らかにしている。

また、移行対象発現率には文化間差があることが先行研究から明らかになっている。
アメリカ、イギリス、スウェーデン、ニュージーランドなど欧米圏の研究によると、およそ60%から80%の範囲の出現率が示されている (遠藤, 1989) 。一方、韓国では18.0%に過ぎなかったと報告しており、わが国においては、藤井(1985)の31.1%、遠藤(1990)の38.0%、井原・庄司(1997)の31.7%、富田(2007)の30.3%という研究結果が示されている。

こうした結果から、現在では移行対象発現には独り寝か添い寝かなどの文化による伝統的な違いや子育てにまつわる様々な文化的要因が影響することが指摘されている (富田, 2007) 。

問題意識

従来の研究では移行対象発現の要因を、環境、主に育児体勢として研究するものが多かった。
本研究では育児体勢として、「授乳様式」、「就眠様式」、「母親の職業」、「入園時期」、「同居の有無」を取り挙げる。
先述したように、移行対象発現には、母子関係が密着している文化ほど、移行対象発現率が低いということも先行研究から明らかになっており、育児体勢が移行対象発現に影響を与えるということは否定できない。しかし、環境、主に育児体勢のみが移行対象発現に影響を及ぼすのだろうか。
遠藤(1990)が言うように、移行対象発現の有無を分けるのはその子にとっての母子関係におけるストレスの相対的多少であるならば、その子自身がどのような気質を持っているかなどの気質の検討が必要であると考える。

気質とは

気質とは、発達初期から顕在化する行動スタイルにおける個人差であり、生物学的基盤を有すると考えられている。 新生児は、成人に比べると大きな個人差は観察されず、個人差は、両親からのかかわりなどの環境要因によって形成されていくと考えられてきた。 しかし、1960年代になると、子どもの生来の気質が親の子どもへのかかわり方に影響を与え、さらに環境の働きにより子どもの性格も変化していくという子どもの気質と環境の相互作用説が現れた。 また、新生児においてもよく泣くタイプやあまり泣かないタイプ、敏感なタイプや鈍感なタイプなど明らかに個人差があることは、何人かの新生児にかかわれば明らかである(武井・寺崎, 2003)。

発達心理学研究において、Thomas & Chessは乳児期初期に見られた個人差が生後2年間はある程度安定性を保っていることを報告している。
Thomas & Chessらは、長年にわたる縦断的研究から、気質を9つの行動特性カテゴリーを提唱している(菅原・島・戸田・佐藤・北村, 1994)。それらは以下のカテゴリーである。
●1.「活動水準(activity level)」:身体運動の活発さ、●2.「周期の規則性(rhythmisity)」:睡眠・排泄などの身体機能の規則正しさ、●3.「接近/回避(approach/with-drawal):新しい刺激に対する最初の反応、 ●4.「順応性(adaptability)」:環境変化に対する慣れやすさ、●5.「反応強度(intensity of reaction)」:泣く・笑うなどの反応の現れ方の激しさ、 ●6.「敏感さ(threshoul of responsiveness)」:反応の閾値、●7.「気分の質(quality of mood)」:親和的行動・非親和的行動の頻度、 ●8.「気の散りやすさ(distractibility)」、●9.「注意の持続性と固執性(attentionspan and persistence)」:特定の行動の持続性、この9つの行動特性カテゴリーに分類している。気質構造については、多様な見解があり、Thomas & Chessらの9つの気質構造について完璧な信頼があるわけではなく、今も尚模索中である。

本研究の目的

@移行対象発現に、育児体勢とその子自身の生来の気質のどちらがより影響を与えるのかということについて比較すること
A移行対象発現に、どのような気質構造を持つ子どもが多いのか検討すること

本研究の意義

富田(2007)は、移行対象と子どもの関係について記述式で回答を求めており、その中で移行対象に対する母親の受容と理解について取り挙げている。 その中に「あまり甘えられなかったのかもしれない。こういう症状は寂しさのあらわれなのだろうか。」という母親の懸念が挙げられている。 移行対象発現に育児体勢が影響を与えているという見解では、このような母親の懸念を取り除くことはできない。 よって、育児体勢と生来の気質のどちらがより影響を与えるかについて比較することは、これら母親の懸念をぬぐえるかもしれないという点で意義のある研究であると考える。

仮説

育児体勢よりも、乳児の生来の気質の方が移行対象発現により大きな影響を与える!