-問題と目的-


1.はじめに

 人は普段、周囲との関わり合いの中で自らの世界を築きながら生活している。 したがって、他者との関わり無くして生きていくことは非常に難しいことである。 また一方で、他者と関わりながら生きていくということは、自分の気持ちや感情ばかりを 優先してはいられないということでもある。そのため、私たちは周囲の人たちと ほどよい関係を構築し、様々な調整をしながら生きているといえる。そのなかで、 私たちはよく「周囲の期待を察知して読み取り、その通りに振る舞う」という行動を とる。それは、いわゆる日本特有の文化ともいえる行動であるが、集団や組織の中で うまく他者と付き合っていく上で、周りの期待に合わせて行動することが非常に重要と なってくるのである。つまり、日本では、「個性よりも協調性を強く重視する」傾向が あるといえる。
 そしてまた、日本の社会はストレス社会とも言われている。たとえば周りに合わせる ことで、他者の期待ばかりを優先させ、自らの感情を表出せずに押し殺すことから、 ストレスが溜まるのではないだろうか。あるいは、自分の感情を優先させたときは、 自らの感情は表出できるものの集団の輪になじめない等といった人間関係に悩むこと になり、結果としてストレスを溜めることもあるのではないだろうか。周囲からの期待 と自らの意志との間で揺れ動くこの日本人の特徴が、ストレス社会の一つの原因に なっているのかもしれない。
 本研究では、いわゆる日本人の特徴として考えられる「周囲の期待を察知して 読み取り、その通りに振る舞う」という行動と「ストレス」との間には、何らかの 関係があるのではないかと推測し、これを検討しようと思う。具体的には、前者の行動 についてはセルフ・モニタリングと自己受容・他者受容の観点から、後者のストレスに ついては、対人ストレスの観点から検討する。


2.セルフ・モニタリングと対人ストレス

 Snyder(1974)は、セルフ・モニタリング(以下、SM)とは、社会的な状況や 人間関係の中の自分を観察し、規制し、コントロールすることであると述べている。 つまり、いわば「自己監視」ということである。
 このセルフ・モニタリング理論によれば、社会的状況下で、人は二つの基本的な情報 をもとにその場にふさわしい行動パターンを構築しようとする。一つは、その場に ふさわしい行動をとるのに必要な、その場の状況や周囲の人たちについての情報、 そしてもう一つは、自分の気持ち、態度、性格についての情報、の二つである。 どちらに重点を置くかは、人によって異なるとされる。
 SM度、つまり自己監視度が高い人(以下、高モニター)は自分の本音や感情よりも 周囲の期待や情報を重視し、その場にふさわしい行動、その場で期待されている行動を とろうとするため、実際の人間関係の場面において、周囲から見た自分の印象を客観的 に把握し、コントロールしようとする。例えば、「本当は退屈を感じているのに、 それを隠して興味や関心を持っているように振る舞う」など、その場にふさわしい行動 をとるが、実は自分の本音や感情とは一致しないことが多い。また、様々な状況下に おいて、「この場では自分はどのような人間になったらいいのだろう」と考えることも 多い。つまり高モニターは、「周囲の空気を敏感に察知し、その上でその期待に沿った 行動をとる人」であると言える。
 対照的にSM度の低い人、つまり自己監視度が低い人(以下、低モニター)は、周囲の 期待や情報よりも自分の本音や感情を重視する人である。場所や時間に関係なく、自身の 行動に一貫性を持たせようとするため、自分の言葉や行動と本当の気持ちが一致する ことがとても重要なことであることから、様々な状況下において、「この場では自分は どうしたら自分らしくいられるのだろう」と考える傾向がある。つまり低モニターは、 「周りから見た自分の雰囲気にそれほど関心を示さず、自分の感情のままに行動する人 」であるといえる。
 ところで、青年期においては、社会的にも人格的にも急激に、広範囲に発達する時期 であり、親や仲間、恋人との期待の間で様々な葛藤が起きることもしばしばあるだろう。  そのような状況下で、SM機能はどのようにはたらくのであろうか。
 先の理論に従えば、高モニターは、自分の感情よりも他者の期待を優先させるだろう。 自らの感情を表出することよりも、それを抑制し、他者の期待に沿った自分になろうと することから、ストレスを経験することも十分に考えられる。一方、低モニターは、 他者の期待よりも自分の感情を優先させるだろう。その結果、自らの感情は表出できる ものの、他者との関係がうまくいかなかったり、周りの人が自分の考えを理解して くれないと感じたりすることから、やはりストレスを経験することが考えられる。
 しかし、これらのSMとストレスの関係についてSnyder(1974)は、高モニター、 低モニターのどちらかがストレスを経験したり個人的な問題を多く抱えたりすると いった、ストレスを含んだ精神疾患に陥りやすいという証拠はなく、精神疾患のレベル とも全く関係がないと述べている。
 SMと精神疾患との間に明らかな関係性が示されてはいないとはいえ、どちらのSM スタイルの人においても、他者との関わりのなかでストレスを抱えている可能性が 考えられ、それぞれにプラスな面とマイナスな面があるといえるのではないだろうか。
 すなわち高モニターは、いろいろな状況に対処できる柔軟性と順応性を備えている ことから、幅広い他者と関係を持つことが得意だというプラスな面があるが、他者と 親密な関係を結ぼうとするときには、その性質が障害になることがある。高モニターは (わざとそうしているように見えることもあるが)、親密さに欠けている。そのため 、他者と深い関係を結んだり、相手が親密さを求めてきたりすると苦痛を感じるといっ たマイナスな面があるのである。
 逆に低モニターは、相手に対して親密な関係を求めることから、限られた人と一緒に 過ごすことが多く、故に親密な関係を築くのが得意であるというプラスな面をもつ。 しかし、他者と幅広く関係を結ぶ状況になったときには、その性質は邪魔になる。 特に、関係によって要求されるものが違う場合は、ますますそうである。また、関係の 解消によって心理的な苦痛を受けたり、情緒不安定になったりすることも多く、これが 低モニターのマイナス面と言えるであろう。
 このように、どちらのSMが良いとか悪いとかいうのではなく、どちらもそれなりに 心理的に不安定になり、ストレスを抱えてしまう要素を持っていると考えられる。 つまり、SMの理論ではあまり触れられていないストレスとの関係については、 やはり検討する余地が残っていると思われ、本研究では、この問題について考えていく ことにする。


3.セルフ・モニタリングと自己受容、他者受容

 沢崎(1984)によると、自己受容とは「ありのままの自分を受けいれること」と定義 されている。具体的には、自分とはどのような人間か、どのような良いところ、悪い ところがあるのかということを十分理解したうえで、これらすべてを受け入れるという ことである。受容の仕方としては、認知した事柄が自己にとって望ましいものである ならば、その受容は肯定的な評価となるが、望ましくないものであったとしても、 否定的な評価はしない、また、そのことにとらわれない、こだわらない、気にしないと いった状態を指すということも述べられている。つまり自己について認知した事柄が 望ましいものであるかどうかによって受容の性質が異なるということである。
 次に、他者受容とは、ありのままの他者を受け入れることであり(上村,2007)、 他人を否定したり憎んだり、自分とは違うと反発したりするのではなく、他人は他人で あると認め、受け入れるということである。上村(2007)は、対人関係において重要と なる自己と他者の相互調整においては、ありのままの自己や他者を受容することが 不可欠であると述べ、さらに宮沢(1988)は、アイデンティティ確立の時期とされる 青年期において、ありのままの自己や他者を受け入れることは重要なテーマであること を指摘している。
 これまでの自己受容に関する研究を概観した沢崎(1984)によると、自己受容と 他者受容の関連を検討した研究では、臨床場面におけるクライエントの変化を実証する ように自己受容と他者受容との間には有意な正の相関が見られているという。つまり 自己受容が高ければ他者受容も高いということである。
 しかし一方で、自己受容と他者受容の間に正の相関はあるものの、自己受容が高く 他者受容が低い者、自己受容が低く他者受容が高い者が不適応を示すことを報告し、 自己受容と他者受容の相関関係だけでなく、自己受容と他者受容のバランスという視点 からの研究も存在する。近年では上村(2007)が自己受容と他者受容のバランスが 不均衡である者の特徴を明らかにするべく、自分の個性を活かした主体的な生き方を 志向する個人志向性(自己実現的特性)と、他者との調和的共存や社会適応を目指す 社会志向性(社会適応的特性)を適応の指標として検討している。結果として、 自己受容が高く他者受容が低い者は、自己実現的特性が高い反面、社会適応的特性が 弱いという特徴が見出された。反対に自己受容が低く他者受容が高い者には、 自己実現的特性が弱く、過剰適応的傾向が強いという特徴が見られた。また、自己受容 と他者受容がともに高い者には最も適応的かつ成熟した特徴が見られ、青年期後期に おいて、自己受容と他者受容がバランスよく共存していることが、より適応的かつ 成熟した状態にあることが明らかにされている。また、青年期における感情適応傾向の 変容に関する研究において眞野(2010)は、過剰適応傾向を持つ青年は「自己抑制」 が強く、「自己不全感」も高い傾向が見出されたとしている。一方で過剰適応傾向を 持たない青年には、「自己を大切にする姿勢」が存在すると考えられる結果になった。 そして、過剰適応傾向が強い青年は、青年自身が自身を受容することができるように なれば「自己不全感」を減少することができ、「自己抑制」せずにのびのびと成長 できるようになるのではないかと述べている。つまり、「自己受容」ができていれば、 過剰適応傾向を持たない可能性があると言える。
 ところで、DeBono(1985)は、説得的メッセージとSM傾向との関連について検討 しているが、この研究では、被験者である学生に対して、あるテーマについての2つの メッセージを聞かせてその反応を検討している。1つ目のメッセージは、そのテーマが 一般的にどれくらい支持されているのかを伝える「社会適応的な関心をかきたてる ようなメッセージ」(今回は「7割が支持している」という設定)、2つ目のメッセージ は、そのテーマにどれくらいの価値があるのかを伝える「価値表現に訴えるメッセージ」 であった。その結果、それぞれのメッセージに対する学生の態度は、彼らのSM傾向と 関係があることが分かったのである(Figure1)。それによると、高モニターの学生は、 価値表現的メッセージより、社会的適応の関心をかきたてるようなメッセージに対して 好意的であり、低モニターの学生は、社会的適応のメッセージより、価値表現に訴える メッセージに対して好意的だったのである。つまり、高モニターはそのもの自体の 価値に対する意見よりも、一般的に支持されているのだという意見に対して好意を 示していることから、社会的適応が高い傾向があると考えられる。一方で、低モニター は一般的にどう言われているかではなく、そのもの自体の価値に対する意見に対して 好意を示していることから、物事の価値は自分で考え、その自らの判断や考えを重視 する傾向があるのではないかと考えられる。そしてこれらの特徴は、前述の上村 (2007)が示した自己受容および他者受容のバランスが不均衡である者の特徴と非常に 類似している。これらの研究から、SM高モニターは概して他者受容の方が高い傾向が あり、反対に低モニターは自己受容の方が高い傾向があると推測することができそうで ある。


4.自己受容、他者受容と対人ストレス

 自己受容と他者受容のバランスに関する研究として、櫻井(2013)は、自己受容 および他者受容のバランスと精神的健康との関連について検討している。この研究では 、自己受容尺度得点と他者受容尺度得点の高群(H)・低群(L)の組み合わせからHH 群・HL 群・LH 群・LL 群(自己受容・他者受容群)の4群に分類し、4群で精神的健康 の程度を比較した。その結果、精神的健康の程度はHH 群> HL 群> LH 群> LL 群と なる傾向が示唆された。そして、他者受容が低くても自己受容が高ければ、精神的健康 の程度が高いという傾向も明らかになった。また、クラスタ分析を用いて分析した結果 、@自己受容が中程度で他者受容が低い群、A自己受容が低く他者受容が中程度の群 、B自己受容・他者受容ともに高い群という3つの群が見出された。自己受容と他者受 容がともに高い群は最も精神的健康の程度が高く、自己受容と他者受容のバランス関係 が不均衡な者はどちらも高い者に比べて精神的健康の程度が低いということを明らかに した。
 ここで、精神的健康とストレスとの関係を検討してみたいと思う。橋本(2003,2005) によると、対人ストレスとは、「ストレッサー(ストレスを生物に与える何らかの刺激 のこと)になりうる対人的相互作用、およびそれによって生じるストレス」と定義 されている。また、対人ストレス場面の類型として、橋本(1997)は@対人葛藤 (社会的規範から逸脱した顕在的対人葛藤事態)、A対人劣等(社会的スキルの欠如、 不足などにより劣等感を触発するような事態)、B対人摩耗(社会的規範から逸脱して いるわけではないが、配慮や気遣いによるストレスが生起する事態)の3種類を挙げて いる。
 さらに末松(1988)は、ストレスを受けた反応として、行動化と精神化と身体化の 3つがみられると述べている。行動化すると非行や暴力などに、精神化すると精神的健康 に、そして身体化するとストレス関連疾患や心身症と呼ばれる、心で起こる身体の病と なって表れるのだという。つまり、ストレスを感じた結果、精神的健康に影響を及ぼす ことがあるということである。
 以上のことから、自己受容および他者受容のバランス群において、ストレスを感じる 度合いに関してHH群<HL群<LH群<LL群の順にストレスを感じているのではないかと 考えられそうである。


5.青年期における内面の発達について

 Mccarthy&Hoge(1982)は、自己受容の発達における縦断的研究から、自己受容は 年齢とともに増加すると述べている。しかし、自分自身をありのままに認めることは 容易ではない。些細なことにも感情的にならず、自分の気持ちや周りの要求に無理なく 応答できること、偏見にとらわれたり偽善を装ったりしないで自分の立場や姿を ありのままに認めるためには、自分の姿を客観的に見ることができる態度を培うことが 非常に重要となってくる。
 Erikson(1950)は、人の発達を誕生から死までのライフサイクルとしてとらえ、 人生を8段階に区分した。そしてそれぞれの段階で心理的・社会的な危機を迎えるが、 それをどのように乗り越えるかが人生の重要な課題であるとした。そして青年期には、 客観的に自己を認知するとともに芽生える「自分は何者なのか」「これからの人生を どうしようとしているのか」といった問題に対して、独自の自己としての自分の概念、 思想、価値体系などを試行錯誤しながら自我同一性(=アイデンティティ)を確立する ことがその課題であるとしている。自我同一性とは、自分という人間は自分しかおらず、 自分は一貫した存在として今日まで生き続けており、さらに今後もその延長上を生きる であろうという「一貫性の感覚」を持つことと、またその感覚の上に自分という存在も しくは自分の生き方が、自分の生きているこの「社会によって是認」されているはず だという「意味・価値の感覚」を持つことで確立するものである。
 こういった自我同一性形成の過程は、青年期以前に始まっており、またしばしば 青年期を越えても続き、その後の人生の多様な経験によって修正されもすると述べて いる。しかし、自我同一性に対する関心は、一般的に青年期に増大する。それは、 青年期に急速な身体変化が自己像についての思考を刺激し、また認知過程の変化が自己の 内省力を高めるとともに、この時期に職業の方向を決断する必要があるので、自己に ついて熟考しなければならないからである。また、試行錯誤しながら自己確認すること に誰もが成功するわけではない。何をやってみても自分にピッタリせず、何をして いいか分からない「自我拡散」、自己を再構築できる自信が持てない「モラトリアム」 、自分を受容することができず自己否定してしまう「否定的同一化」、あるいは自分の 信じる世界が社会・文化と相容れない場合に、社会・文化が悪いとこれに対抗していく 「対抗同一化」などの場合も稀ではないという(加藤, 2001)。これらの課題を無事に 乗り越え、アイデンティティを確立した後に、本当の意味で自分の立場や姿を ありのままに認めることができるようになると言えよう。
 また、平石(1990)は、自己意識における自己肯定性(自己への態度の望ましさ) 次元の発達について、高校生は中学生や大学生に比べて低くなっており、中学・高校 ・大学を通して見てみるとU 字型の発達曲線を示すと述べている。さらに加藤(1962) は、青年期における自己受容と自己批判の年齢的変容についての研究の中で、高校生は 中学生や大学生に比べて自己受容が低いという結果を示している。
 自己受容と他者受容は正の相関があることを踏まえた上で、以上のことより、高校生 は大学生と比べて自己受容および他者受容が、あまりできていないのではないかと 考えられる。一方で大学生は、高校生と比べて自己受容および他者受容が、どちらも 高くバランスがとれている傾向があるのではないかと考えられる。