考察
本研究では,いじめ場面を目撃した第三者について,第三者の集団内地位,公正世界信念は第三者のその後の行動にどのような影響を及ぼすのかを検討することを目的とした。仮説は以下の通りであった。@究極的公正世界信念が高い者は傍観行動をとる。A内在的公正世界信念が高い集団内地位高群は,援助行動をとる。B内在的公正世界信念が高い集団内地位低群は,はやしたて行動をとる。
その結果,はやしたて行動については集団内地位,内在的公正世界信念それぞれの有意な主効果が,被害者援助行動および傍観行動については集団内地位,究極的公正世界信念,内在的公正世界信念それぞれの有意な主効果が見られ,いずれについても不公正世界信念からの有意な主効果は見られなかったが,はやしたて行動については,集団内地位と不公正世界信念の交互作用に有意傾向が見られた。そして,人気者の方が目立たない存在よりはやしたて行動を行うこと及び,人気者の方が目立たない存在より被害者援助行動を行うこと,目立たない存在の方が人気者より傍観行動を行うことが明らかになった。また,究極的公正世界信念高群が究極的公正世界信念低群より被害者援助行動を行うこと,究極的公正世界信念低群が究極的公正世界信念高群より傍観行動を行うこと,内在的公正世界信念低群が内在的公正世界信念高群よりはやしたて行動を行うこと,内在的公正世界信念高群が内在的公正世界信念低群より被害者援助行動を行うこと,内在的公正世界信念低群が内在的公正世界信念高群より傍観行動を行うことが明らかになった。そして,不公正世界信念高群においては,人気者の方が目立たない存在よりもはやしたて行動を行う可能性があることが明らかとなった。
1.集団内地位について
1-1.はやしたて行動について
はやしたて行動においては,集団内地位の有意な主効果がみられ,人気者の方が目立たない存在よりはやしたて行動を行いやすかった。
田中(2015)は鈴木(2012)の研究から,人気者が他者から人気を獲得するには「空気を読む」ことが求められると述べている。また,鈴木(2012)は,大学一年生を対象とした「これまでの学校生活の人間関係に関する回顧的調査」というインタビュー調査から,学級内地位上位者の義務として挙げられたものを区分した結果,教師や学級内地位下位だと見なされる者たちへの野次がその大半であることを見出した。ここから,子どもたちの間に,普段から人気者は学級の雰囲気を作る際,目立たない存在の者をいじるなどして場を盛り上げている可能性,その盛り上げる行為は周囲から期待されていて,人気者の義務であると捉えられている可能性が読み取れ,本研究においてもその「人気者の義務」感からはやしたて行動をおこなったと考えられる。
1-2.被害者援助行動について
被害者援助行動においては,集団内地位の有意な主効果がみられ,人気者の方が目立たない存在より被害者援助行動を行いやすかった。
人気の低い者は人気の高い者には逆らえないこと,人気の高い者の発言がクラス全体の総意として通用すること(田中,2015)や,集団内地位が上位の子どもは,自分自身は学級に影響力があると理解していること,学級内で子どもたちは自身の地位に見合った振る舞いを考えてしていること,学級集団内の地位が上位の子どもは下位の子どもより先生との親密性が高いこと(鈴木,2012)から,人気者は目立たない存在よりも,自分の援助行動を学級や教師は肯定するだろう,あるいはサポートするだろう,また自分には援助行動ができるだろうと考え,援助行動を行いやすいと推察される。
また,権力を持つ生徒は,自分の立場の優位性から,まわりの感情を気にせず,自分の思うとおりの行動をとることができる(鈴木,2012)という指摘から,人気者である自身が助けなければと判断した際には,他の傍観者,観衆その他の人物を気にする程度が目立たない存在よりも小さく,容易に援助行動をとることができると考えられる。
1-3.傍観行動について
傍観行動においては,集団内地位の有意な主効果がみられ,目立たない存在の方が人気者より傍観行動を行いやすかった。
目立たない存在は,「上」の「ランク」の者がいる状況では,それ相応の行動をとることが強いられている,という現状がある(鈴木,2012)。本呈示場面においても,目立たない存在の生徒は仮に援助行動やはやしたて行動をとりたいと考えていても,周囲の様子をうかがい,自身の立場を見極めてじっとしているという可能性が考えられる。
また,集団内地位が下位の者は,クラスメイトから身分の低い存在,目下の存在とみなされて,いじめの標的になりやすくなること(鈴木,2012),現代のいじめには,いつ自分がいじめられる立場になるかもしれないという不安感があること(森田・清永,1994),傍観理由には,いじめへの「巻き込まれ懸念」や「無力感」,「周囲のサポート不足」があること(富澤・佐野,2014)が指摘されている。目立たない存在は,自身の援助行動は周囲からサポートが得られると考えず,また,援助行動をすることで自身がいじめ被害者になる可能性が高いと言える。それ故,いじめを目撃した場合にも積極的に援助行動をとることはリスクが大きいと考え,傍観行動を選択したのではないだろうか。
2.究極的公正世界信念について
2-1.はやしたて行動について
はやしたて行動においては,究極的公正世界信念の有意な主効果はみられなかった。
2-2.被害者援助行動について
被害者援助行動においては,究極的公正世界信念の有意な主効果がみられ,究極的公正世界信念高群が究極的公正世界信念低群より被害者援助行動を行いやすかった。
この結果は,村山・三浦(2015)の,究極的公正世界信念は厳罰指向や秩序維持とは関連がなく,被害者との間に心的距離をとりやすいという報告と一致しなかった。これは,村山・三浦(2015)の調査対象者の平均年齢が約40歳であるのに対し,本研究の調査対象者は中学1年生(年齢は12歳または13歳)であることが影響しているだろう。究極的公正世界信念とは,不公正によって受けた損失が将来的に埋め合わせされると信じる傾向であり,自分が知るに至らなくとも被害は将来的に回復されると考え,被害の回復は現世で行われる必要はなく来世でも構わないという,宗教性の強い長期的視点を含む信念である。中学1年生にとって,来世でも構わないという,宗教性の強い長期的視点で究極的公正世界信念の質問項目を捉えることが難しかったことが考えられる。それ故,「被害者は救われる」と信じる傾向が,自らが被害者援助を通して被害者を救うということに関連を示したのではないかと考えられる。
また,この結果から,被害者はいつか救われてほしいという中学生の願いが推察される。いじめ場面に関しては,いじめ傍観者の中には,本当は被害者を救いたいが救えない人たちがいる(富澤・佐野,2014)という報告があり,本研究はシナリオによる質問紙調査であったため,実際の場面においては援助行動がためらわれる状況だとしても,被害者が救われてほしいと考えている者は援助行動を選択した可能性があるだろう。
2-3.傍観行動について
傍観行動においては,究極的公正世界信念の有意な主効果がみられ,究極的公正世界信念低群が究極的公正世界信念高群より傍観行動を行いやすかった。よって,仮説@は支持されなかった。また,これは,究極的公正世界信念の強さは,被害者との間に心理的距離をとり,事件が自分自身とは無関連な出来事と考える形の信念維持につながった可能性を示した村山・三浦(2015)と異なる結果であると言えるだろう。これには,2-2で取り上げたように,調査対象者の年齢の違いによる観念や質問項目の捉え方の差が関係していると考えられる。
本研究の結果から示された,究極的公正世界信念低群が究極的公正世界信念高群より傍観行動をとりやすいとはどういうことなのか。究極的公正世界信念の質問項目は「被害者は救われる」といった内容だったことから,中学生は,「被害者は救われる」と考えていない場合,傍観行動をよりとりやすいということになるだろう。
公正世界信念は経験を通して形成される(Bennett,2008)ことから,自身がなんらかの被害者になった時に救われなかったような経験がある場合や,被害者が救われなかったような場面を目撃した経験があると,「被害者は救われる」とは考えにくくなることが考えられる。そのような場合,自身が被害者に対して援助行動をとるという考えは浮かびにくく,傍観行動を選択したと考えられる。
3.内在的公正世界信念について
3-1.はやしたて行動について
はやしたて行動においては,内在的公正世界信念の有意な主効果がみられ,内在的公正世界信念低群が内在的公正世界信念高群よりはやしたて行動を行いやすかった。
つまり,いじめられる方にも非があり,加害行動には正義が内在していると考えない方が,正義が内在していると考える方よりはやしたてを行うということが示唆された。森田・清永(1994)の,加害者の加害理由では「相手に悪いところがあるから」が6割を超えるのに対し,観衆層のはやしたて理由では,「相手に悪いところがあるから」が大幅に減少し,「おもしろいから」という理由と割合が拮抗するという調査結果を報告している。このことから,はやしたて行動を選択した者は楽しいからはやしたてているだけであって,善悪の判断をするに及んでいないのではないかと考えられる。
3-2.被害者援助行動について
被害者援助行動においては,内在的公正世界信念の有意な主効果がみられ,内在的公正世界信念高群が内在的公正世界信念低群より被害者援助行動を行いやすかった。
村山・三浦(2015)は,内在的公正世界信念は加害者への厳罰指向や非人間化と関連すること,被害者非難とは関連が見られないことを明らかにし,内在的公正世界信念の強い者は,加害者が存在する場合には加害者への否定的反応を通した信念維持が優先され,相対的に被害者非難が行われにくくなる可能性を見出している。本研究の結果は,この結果を支持するものであったと言えるだろう。
ここから,内在的公正世界信念が強い者にとって,なんら非の無い者がいじめられていることは信念に対する脅威になるため,脅威に対処するために,いじめ加害者に対して罰を与えようとしたり非難を行ったりすることが考えられ,その結果,被害者を援助する行動をとると考えられる。
3-3.傍観行動について
傍観行動においては,内在的公正世界信念の有意な主効果がみられ,内在的公正世界信念低群が内在的公正世界信念高群より傍観行動を行いやすかった。
内在的公正世界信念を信じない者は内在的公正世界信念を強く信じる者に比べ,信念に対する脅威を感じにくいことが考えられる。よって,脅威に対処し内在的公正世界信念を維持するための加害者への厳罰指向や非人間化といった努力をする必要に迫られないため,本呈示場面において「いじめへの無関心(富澤・佐野,2014)」状態になり,それが傍観行動となって表れたと考えられる。
4.不公正世界信念について
いずれにおいても不公正世界信念の有意な主効果はみられなかった。
5.集団内地位と公正世界信念の組み合わせにについて
はやしたて行動においてのみ,集団内地位と不公正世界信念の交互作用に有意傾向が見られた。不公正世界信念高群においては,人気者の方が目立たない存在よりもはやしたて行動をより行う可能性があることが示された。よって,仮説A仮説Bは支持されなかった。
不公正世界信念とは,この世に公正なことはないと考える傾向(村山・三浦,2015)である。これを中学生において具体的に考えると,「頑張ったが褒められない」「悪いやつが怒られていない」と考える傾向と言い換えられるだろう。はやしたて行動における不公正世界信念の有意な主効果が見られなかったことから,本研究からは不公正世界信念ははやしたて行動に直接影響を及ぼすとは言えない。しかし,強い不公正世界信念を持った者については,人気者は目立たない存在よりはやしたて行動を行うという可能性が示唆された。つまり,人気者の中でもこの世を不公正だと強く考えている者は特に,いじめ目撃場面においてはやしたて行動をとる可能性がある。これは,不公正世界信念の強さも厳罰指向や加害者の非人間化につながっていたとする村山・三浦(2015)の結果とは異なる結果であると言えるだろう。自身の研究結果について村山・三浦(2015)は,上記のプロセスには,社会は不公正だとする信念を醸成するに至った過去の対人的な経験や昨今の社会的状況も,直接的ではなくとも影響している可能性があるだろうと述べている。ここから,自身が不公正な扱いを受けた等の経験があると,不公正な加害者たちに対して批判的姿勢が形成されるという考えが読み取ることができる。本研究から,社会は不公正だとする信念を醸成するに至った過去の対人的な経験や昨今の社会的状況は,新たな不公正状況を生み出すという負の連鎖を引き起こすことが示唆されたのではないだろうか。そしてその新たな不公正を生み出すのは,単にこの世界は不公正だと強く考えている者よりも,その場においてより権力を持っており尚且つこの世を不公正だと強く考えている者である可能性がある。いじめ問題に関して述べるならば,過去のいじめの被害経験や不公正ないじめ場面を目撃した経験その他不公正な状況を多く経験し,この世に公正なことはないという考えを強く持つようになった者が学級内で人気者になりいじめを見た時,はやしたてる観衆となる可能性があると言える。そしてそのような場合,被害者はさらに不公正な状況に追いやられ,その経験が被害者の不公正世界信念が強めるということが考えられる。不公正世界信念を強化し,不公正状況を生み出す負の連鎖といえよう。