問題と目的




1.はじめに

凄惨ないじめが,今もどこかで行われているだろう。

そう思わせるほど,テレビやネットを見れば,毎日というほどいじめに関するニュース,記事が目に入る。

文部科学省が公表した最新の「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査(平成26年度3月確定値)」によると,2014年度の中学校でのいじめ認知件数は52,971件あり,学年別に見ると中学1年生で26,954件と最大になっている。

さらに,文部科学省(2016)の公表しているいじめ認知(平成17年度までは発生)件数の推移を見てみると(Table1),グラフ自体は急増と漸減を呈しているが,これはいじめの定義やいじめ調査の方法の変更によるものや,いじめに関する報道の量によりいじめに対する世間の目の厳しさが変動しているからに過ぎず,「いじめ」を数で把握することには限界がある(鈴木,2012)と言われている。

また,この報告は教師のいじめ認知に基づくものであり,必ずしもいじめの実態を把握しているとは言えないという指摘(富澤・佐野,2014)もある。

いじめ防止やいじめ解決が叫ばれる今日であってもいじめが増えも減りもせず,日々いじめ被害者の自殺がニュースで取り沙汰される現状には,いじめ問題に存在し,いじめ発見および解決を妨げる2つの壁の影響がある。

それは,「どこまでがいじめではなく,どこからがいじめか」といういじめと判断するための線引きの難しさであり,もう1つは,いじめ発見の困難さである(久保,2016)。

現代のいじめの特徴として森田・清永(1994)は,「いじめの可視性の低下」「立場の入れかわり」「スティグマの拡大」「いじめの集合化」「歯止めの消失」「いじめと非行の接点」などを挙げている。

また,矢守(1995)は,現代のいじめを昔のいじめと比較し,その特徴を(1)端的な(=理由のない)「無視(シカト)」「仲間はずれ」(2)標的の浮遊性(3)標的選定契機の任意性としている。

現代のいじめは昔にくらべて陰湿で残忍な方法がとられ,しかもそれが長期にわたって続く(森田・清永,1994)という特徴がある。

それ故,昨今ではいじめ被害者が自殺に追い込まれるなど,学校の抱える問題としてだけでなく,日本社会の抱える問題として深刻に考えるべき事象になっている。

いじめ被害者が自殺したケースなどは,その詳細に至るまで多くのニュースに取り上げられ人々の関心を集めていると思われるが,先のデータを見ると,社会全体として「いじめをなくそう,いじめはいけない」という機運が高まっている中でもいじめは常に行われており,苦しんでいる被害者は数多くいることがわかる。

なぜこのような現象が起こっているのだろうか。

その要因には,子どもをとりまくストレッサーの増加や彼ら自身のストレス耐性の低下なども指摘されているが,もっとも直接的な原因として,「歯止め」の存在の欠如が考えられる(大坪,1998)。

「歯止め」とは,第1にいじめ加害者本人が「これ以上やったらヤバイな」という自分自身の行為にブレーキをかけることであり,第2に教師をはじめとした大人たちの制止や指導であり,第3は,いじめを見守る第3者によるブレーキである(大坪,1998)。

しかし,「面白い」「スカッとする」という動機が挙げられる現代のいじめ行動(森田・清永,1994)においては,第1の「歯止め」の効力は期待できないものになっているだろう。第2の「歯止め」については「いじめの可視性の低下」の影響が考えられる。森田・清永(1994)は,「その見えにくさは教師や親からの見えにくさである」と指摘し,「子どもたちの目にはすべて見えている」と述べている。また,清水・瀧野(1998)は,「教師がいじめの事実を確認できない場合においても,第三者的立場にいる子どもたちが気付き,何らかの行動を起こすことでそれを抑制することは可能になると考えられる」としている。ここから,第2の「歯止め」も効力を発揮することは多くの場合困難であることが予想され,第3の「歯止め」が最も直接的に作用すると考えられる。つまり,大人たちが発生したいじめ問題に直接働きかけることは,多くの場合その発見の段階から困難であり,いじめを発見しやすい立場にある子どもたちがいじめの解決者になることが被害者の早期救済につながると考えられる。 いじめを発見しやすい立場にある子どもたちとは,加害者,被害者の周囲に存在する子ども達である。いじめの構造について,森田・清永(1994)は「いじめっ子(加害者)」「いじめられっ子(被害者)」「いじめをはやしたておもしろがって見ている子どもたち(観衆)」「見てみぬふりをしている子どもたち(傍観者)」という四層構造を提唱している。先述のように,いじめを発見しにくい大人たちが加害者や被害者に直接働きかけるという考え方のほかに,子どもたちがいじめ解決者になることを考えると,「加害者」「被害者」の二者だけではなく,傍観者や観衆といった第三者を問題にしなければならないといえる(清水・瀧野,1998)。そこで本研究では,いじめ場面における第三者に注目する。なお,本研究における第三者とは,清水・瀧野(1998)同様,「同一集団内で被害者と加害者以外の立場にあるもの」と定義する。また,本研究においては,日常の体面的なやりとりの中でいじめが発生していることを考えると,教室という場によって区切られた学級集団をまず分析の基本的な対象とすべきだろう(竹川,1993)という指摘や,日本のいじめは教室で多く起こる(鈴木,2012)という指摘から,同一集団を,「1つの学級集団に在籍する者たち」と定義する。 2.いじめとは いじめは,たかだか子どものイタズラやふざけにすぎないという見方がいまだに根強く残っている(森田・清永,1994)。いじめといじわる(いたずら),非行を「犯意」と「被害」を手掛かりに森田・清永(1994)は,(1)犯意はあるが被害が軽い「いじわる的いじめ」(2)犯意は低いが被害が大きい「非行的いじめ」(3)犯意はほとんど見受けられないが被害は大きい「いたずら的いじめ」(4)犯意があまりに明確でかつきわめて悪質で被害が大きい「犯罪的いじめ」に分類している。この分類を基に竹川(1993)は,自身の調査から生徒によるごく一般的な学級集団におけるいじめ認知は「いじわる的いじめ」が主で「非行的いじめ」と「いたずら的いじめ」が若干であることを見出し,教室において生徒間の対立やふざけ「ごっこ」が生じた時,同一空間内にいる生徒は,先生や外部の者よりも,より適切ないじめの判定者であるとみなしうるであろうと述べている。  また,子どもと先生とでは,何をもっていじめとするか,その判断に違いがあるという研究がある。たとえば,教師と子どものいじめ認知傾向の違いについて邑本(1997)は,加害者が一人よりも複数の場合の方が加害者の行為をいじめと認知することは教師と子どもに共通してみられることだが,子どもは被害者側の被害そのものをいじめかどうか判断する際に重視するのに対し,教師は加害者側の動機を重視する傾向があることを明らかにし,教師にとっては「いじめ」かどうか判断できない場合にも,子どもは「いじめ」と感じているかもしれないと述べている。この研究において,教師は加害者の動機(特に,悪意)をもっていじめかを判断する可能性が見出されたが,現代の実際のいじめ場面では,「いじめ加害者が自分のいじめようとする動機を隠すことや,いじめていることを正当化することがしばしば見られる(森田・清永,1994)」ことが知られており,加害者の動機をいじめの判断材料とすることはその行為に対し誤った認識を持つことに繋がり,いじめを長期化・深刻化させるおそれがある。  以上のことから,いじめは否かの判断には個人差や立場による差があることが考えられるが,その中でも子どもたちによるいじめ判断は,よりいじめの本質を捉えた判断であることが考えられるだろう。  2-1.いじめの定義 いじめの定義に関しては,竹川(2010)や富澤・佐野(2014)が指摘するように,何をもっていじめとするのかといういじめの定義の問題が存在する。竹ノ山・原岡(2003)は,いじめには様々な形態があり,状況が複雑なため,いじめかどうかの判断には明確な基準がなく,各関係者が主観的に判断せざるをえないと述べ,坂西(1995)は,何をもっていじめと考えるかは,当人の主観によるところが大きい。つまり,外部の人はからかいだと見る行為であっても,当人が心理的・身体的苦痛を感じ,いじめであると受け止めるなら,それはいじめになると述べている。また,森田・清永(1994)はいじめを定義するにあたり,いじめという現象が,いじめられている側の主観的世界に基礎をおくとしても,これまでにみてきたように,外から判断したり調査などで実証的に明らかにしようとしたりすれば,被害者の主観を調査するだけでは不十分である。そこで,いじめかどうかを被害者の外から判断するためには,いじめの定義のなかにどうしても加害者側の動機を組み込む必要があると述べている。 以上のように,これまで確固たる定義がなく,正確にいじめを定義することは非常に困難であるため,各研究者によって各研究者単位での定義づけが行われてきた。たとえば,いじめとは,「同一集団内の相互作用過程において優位に立つ一方が,意識的に,あるいは集合的に,他方に対して精神的・身体的苦痛をあたえることである(森田・清永,1994)」,「その時の状況において相対的に優位に立つ一方が劣位の者に対して,通常目的と手段の間に正当的根拠がないかあっても過度に及ぶ手段によって,精神的ないしは身体的な苦痛を与える攻撃行為である(竹川,2010)」,「集団内で多数の者がある特定の者に対して一方的継続的に行う攻撃(大野,1996)」「いじめは一方的に相手に対して加害行為をし,繰り返し身体的・心理的な傷害を加える,被害者と加害者の間の力関係のアンバランスな攻撃行動である(元・坂西,2016)」などがある。 また,文部科学省(当時文部省)のいじめの定義の変遷を見ると,1986年に「『いじめ』とは,『@自分より弱い者に対して一方的に,A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え,B相手が深刻な苦痛を感じているものであって,学校としてその事実(関係児童生徒,いじめの内容等)を確認しているもの。なお,起こった場所は学校の内外を問わないもの』とする。」と定義して以来,1994年に「『いじめ』とは,『@自分より弱い者に対して一方的に,A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え,B相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお,起こった場所は学校の内外を問わない。』とする。なお,個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく,いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。」と,被害者の立場に立っていじめか否かの判断をするという趣旨の文言が加えられ,2006年には「『いじめ』とは,『当該児童生徒が,一定の人間関係のある者から,心理的,物理的な攻撃を受けたことにより,精神的な苦痛を感じているもの。』とする。なお,起こった場所は学校の内外を問わない。」と,「一方的」「継続的」「深刻な」が削除され,関係性について「一定の人間関係のある」が付け加えられた。そして,現在は2013年に定義された「『いじめ』とは,『児童生徒に対して,当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インタ−ネットを通じて行われるものも含む。)であって,当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。』とする。なお,起こった場所は学校の内外を問わない。」という定義である。 いじめの定義に関する以上のことを概観し,いじめを定義すると,いじめとは(1)同一集団内で(2)その状況において結成された集団内集団が(3)その集団内集団に属さない個人に対して(4)意識的に(5)繰り返し行う行為であり(6)行為の受け手が心理的または物理的な苦痛を感じる行為と言えるだろう。本研究では,この定義に基づいて,研究を行うこととする。 2-2.いじめの発生と継続および抑制の要因 いじめは,どのようにして発生するのだろうか。 久保田(2013)は,いじめ加害理由として「異質性排除」「制裁」「遊び・快楽指向」「周囲への同調」「家庭内でのストレス発散」の5種類があることを明らかにした。森田・清永(1994)は,いじめっ子のいじめ理由として「相手に悪いところがあるから」が過半数を超え,次いで「おもしろいから」「なんとなくいじめたくなるから」という理由が挙げられることを明らかにした。遠藤・塹江(1986)は,いじめの理由として「うっぷんを晴らしたいから」が最も多く,「面白く愉快だから」が二番目に,「言うことを聞いてくれないから」が三番目に多く,上位2つで全体の6割を超える結果になることを明らかにした。 これらの結果を被害者要因,加害者要因として分類すると,「異質性排除」「制裁」「相手に悪いところがあるから」「言うことを聞いてくれないから」が被害者の要因,「遊び・快楽指向」「周囲への同調」「家庭内でのストレス発散」「おもしろいから」「なんとなくいじめたくなるから」「うっぷんを晴らしたいから」「面白く愉快だから」が加害者の要因と捉えることも出来よう。しかし,これらは加害者の理由である。森田・清永(1994)は,加害者が被害者の欠点や問題性を指摘し自分のいじめ行為を正当化することを指摘しており,久保田(2013)はそうした問題性や欠点とは集団内におけるルールからの逸脱と考えられ,集団内におけるルールと考えられているものは,実は子どもたちが自他の行為や出来事を解釈するための枠組みであり,いじめ加害者はそれを資源として利用することによって,自身のいじめ行為を正当化していると考えることが可能であるとしている。 以上より,いじめの発生は被害者ではなく加害者にその原因がある場合が多いと言えるだろう。 いじめの発生および継続のメカニズムを,被害者加害者の2者間の要因からだけでなく,集団の要因から検討している研究もある。いじめが起こる集団として,学級という特殊な集団が挙げられる。竹川(1993)は,学級集団について(1)教科学習を第一の集合目標とする機能的集団であること(2)社会科機関として教師が生活指導面の訓育をおこなうこと(3)一定期間存続し,その間成員の所属を強制すること(4)その構成員は,教師以外年齢面での同質性と能力や性格などの差異性をもつこと(5)同一空間内にあって成員が体面的相互作用をおこなうこと(6)学級集団内で過ごされる時間は,成員の生活世界の中心を占めていることをその特徴として挙げている。そして,それらすべてがいじめ成立に直接的ないし間接的に関わっていると述べている。 大西・黒川・吉田(2009)は,学級のいじめに否定的な集団規範といじめに対する罪悪感の予期は,制裁的いじめ加害傾向と異質性排除・享楽的いじめ加害傾向に負の影響を与えること,受容・親近・自信・客観の教師認知は,学級のいじめに否定的な集団規範といじめに対する罪悪感の予期に正の影響を与えること,怖さの教師認知と学級のいじめに否定的な集団規範は,いじめに対する罪悪感に正の影響を与えること,罰の教師認知は,制裁的いじめ加害傾向と異質性排除・享楽的いじめ加害傾向に正の影響を与えることを明らかにし,教師の受容・親近・自信・客観といった態度が,学級のいじめに否定的な集団規範といじめに対する罪悪感の予期を媒介して,児童・生徒の加害傾向を抑制する効果があることを示唆し,いじめを防止する上で教師の果たす役割の重要性を指摘した。 大西・吉田(2010)は,学級の集団規範およびいじめ加害者の認知的共感性,誇大的自己愛傾向がいじめ加害行動に及ぼす影響について検討し,いじめの加害傾向に影響を与える主な要因はいじめに対する否定的な規範意識であることを明らかにし,この結果は「いじめ行為の実行といじめの利害意識との関連を裏付けるもの」であるとしている。 過去の研究の中で,いじめ加害行為の発生および継続要因としてこの利害に関する意識がしばしば挙げられている。たとえば久保田(2013)は,いじめがエスカレートする要因の1つとして,「利益の発生(いじめが楽しくなったり,被害者を服従させることで気分がよくなったり,加害者同士で連帯感を感じるようになること)」を挙げ,加害者がいじめをすることによって得られる利益を実感するようになった場合に,いじめはエスカレートしやすいことを明らかにした。 いじめ停止要因に着目した研究もある。清水・瀧野(1998)は,第三者の援助がなく被害者が一人きりで抵抗する場合はさらにいじめられる可能性が高く,今後のいじめへの動機づけが高くなる傾向があること,第三者が援護する場合,顕著にいじめを抑制する傾向があることを明らかにした。 以上より,いじめが発生および継続して行われている事態には,被害者に原因や問題があるわけではなく,加害者の独りよがりな理由や感情がその要因としてあること,また学級という集団の作用がいじめの抑制および停止に大きく関わっているということが言えるだろう。いじめの発生が加害者の独りよがりな理由であれば,加害者自身が自ら加害行動をやめるとは考えにくいこと,学級という集団の作用とはつまり一人ひとりの子どもたちの作用であると言えることから,ここからも,いじめを抑制・停止させる第三者の存在は重要であると言えるだろう。 3.いじめ場面における第三者 いじめ事件が発生すると,私たちは「いじめっ子」と「いじめられっ子」という加害者―被害者の関係に目を注ぎ,なにが原因かを探り出そうとする(森田・清永,1994)。たとえば杉原・宮田・桜井(1986)は「いじめっ子」と「いじめられっ子」の社会的地位とパーソナリティ特性を検討し,仲間集団内では「いじめっ子」「いじめられっ子」とも普通の児童よりも社会的地位が低い傾向があること,特に「いじめられっ子」は「いじめっ子」よりもかなり低く集団内で孤立していること,「いじめっ子」は外向的である反面,忍耐力や誠実さに欠けていること,「いじめられっ子」は内向的で依存心が強く神経質であることを見出した。また,神藤・斎藤(2001)は,学校ストレッサーに対し,情動に焦点を当てた対処行動を行う傾向にあるものがいじめを行う可能性が高いことを明らかにした。このように,「いじめ」に関する研究では,被害者の要因や,加害者のいじめの促進要因や抑制要因に関する検討が精力的に行われてきた(大坪,1998)。ここからうかがえるのは,被害者・加害者の性格上の問題が原因でいじめが生じる,という考えは,当時の教育界にかなり浸透していた,ということである(久保田,2013)。 これらは日ごろ教師が気にかける者を定めるための指標になる。しかしながら,「現代のいじめ」の特徴の1つである「立場の入れかわり(森田・清永,1994)」を考慮すると,いじめ加害者に対する加害行為抑制や,被害者に対する指導によるいじめ防止には限界があることが予想される。そこで本研究では,いじめが発生した際に,どのように終息に向かわせるかということに焦点を当てる。 いじめ場面に存在するのは,被害者,加害者の二者だけではない。いじめの構造について,森田・清永(1994)は,「いじめ集団の四層構造」説を提唱した。四層とは,「いじめっ子(加害者)」「いじめられっ子(被害者)」「いじめをはやしたておもしろがって見ている子どもたち(観衆)」「見てみぬふりをしている子どもたち(傍観者)」である。過去の研究を概観した久保田(2013)は,「森田ら(1986)によって『いじめ集団の四層構造論』が提唱されたことにより,『いじめは被害者・加害者といった当事者間の問題ではなく,学級集団全体の在り方が問われる問題である』,とする考えが研究者および教育関係者の間に広く浸透していくこととなった」と述べ,従来のいじめに関する研究を概観した清水・瀧野(1998)は,その多くの研究でいじめの基本構造としてこの「いじめの四層構造」を理論的枠組にしていることを見い出した。本研究でも,この「いじめ集団の四層構造」説を前提とする。 また,森田・清永(1994)は,いじめに対する「反作用力」の存在を挙げている。ここでいう「反作用力」とは,いじめ場面において,被害者加害者以外の第三者のいじめに対する抑制行動を指し,「いじめが誰に,どんな手口で,どれだけ長く陰湿に行われるかは,加害者にもよるが,同時にかなりの数にのぼる『観衆』と『傍観者』の反応によって決まってくる」と述べている。また,この「反作用力」の影響について,被害者と第三者の反応がいじめ加害者に及ぼす影響を架空のエピソードを用いて検討した清水・瀧野(1998)は,被害者がいくら抵抗を示しても,第三者の援護が得られなければさらにその場でいじめられる可能性が高く,加害者に楽しいという感情を与えやすいこと,第三者の援護がない場合,加害者は自分たちが「悪いことをしている」という認識を持ちにくく,今後のいじめへの動機づけが高くなる傾向があることを見出した。そして「今日のいじめ問題は,第三者による援護なしでは解決が困難である」と述べている。 以上のことから,いじめ場面における第三者は,いじめが持続するか解決されるかを左右する存在であると考えられる。よって本研究では,いじめ場面における第三者に注目し,第三者がいじめ解決に向けた被害者援助に向かうための要因を検討することを目的とする。 4.いじめ関連行動発現に関わる要因 4-1.いじめ関連行動 いじめ場面における第三者の行動に関して,蔵永・片山・樋口・深田(2008)は,大学生を対象にしたいじめ場面呈示による調査において,第三者のとる行動は,いじめを面白がったりはやしたてたりする「はやしたて行動」,被害者をなぐさめたりいじめを仲裁する「被害者援助行動」,いじめをただ見ていたり無視する「傍観行動」の三種類であることを明らかにし,被害者がどのような気持ちかを想像することが援助促進・傍観抑制要因となりうること,他の傍観者がどのような気持ちかを想像することが援助抑制・傍観促進要因となりうることを明らかにした。 4-2.第三者の被害者援助行動促進要因・抑制要因 いじめ場面の第三者の行動を規定する要因として,富澤・佐野(2014)は,第三者の援助抑制要因として「巻き込まれ懸念」「教師のサポート不足」「学級のサポート不足」「気恥ずかしさ」「いじめへの無力感」「被害者への原因帰属」「いじめへの無関心」「関わり拒否」があること,第三者の加害抑制要因として「被害者との親密さ」「加害者との疎遠さ」「道徳観」があること,傍観後の心理として「いじめ解決願望」「いじめ傍観の正当化」があることを明らかにした。大坪(1998)は,いじめ場面における援助抑制要因として「事態の肯定」「被害者への帰属」「いじめに対する恐怖」「評価懸念」「事態の悪化への懸念」「事態解決の糸口の無さ」を見出した。石田・中村(2013)は,いじめ場面における各立場の心理的特徴として,解決者は自己肯定感と大人への信頼感が高いことを明らかにした。また,いじめに限らず一般的な援助行動を規定する要因として,山際・堀(1991)はそれまでの研究を概観し,それは「傍観者の有無や事態のあいまい性などの状況要因,性格特性や地位などの援助者の個人的要因,性別,援助の要請の仕方などの被援助者の個人的要因,そして規範や慣習などの文化・社会的要因など」であると結論付けた。 いじめ被害者に対する援助行動を,いじめ被害者への思いやり行動として考えた場合,その行動は「集団内の弱者に対する思いやり行為」と捉えることができるだろう(竹川,1993)。ある行為が集団内で思いやり行為として成立するためには,(1)共有化された状況の定義づけの察知による状況判断(2)援助を必要とする相手の欲求や状態についての認識(3)援助的行為が必要であるとみなして行為を構想し,それが実行可能だという判断(4)構想した行為が状況への同一化を促し,他者に承認されるであろうという予測(5)時宜を得た適切な手段による実行を適切に察知し,機敏に行動することが必要である(竹川,1993)。 規範や文化・社会的要因については,学級の集団規範がいじめ加害傾向に影響を及ぼす主な要因であることが示唆されている(大西・吉田,2010)が,堀越・坂本(2004)は,雰囲気の操作がない統制条件,いじめに対して受容的な雰囲気の受容条件,いじめに否定的な雰囲気の否定条件の3つの雰囲気が援助行動におよぼす影響を検討し,場面雰囲気が異なっても傍観者意識に影響しない可能性があること,場面雰囲気が異なっても援助行動に影響しない可能性があることを明らかにした。ここから,学級の雰囲気や規範意識は,いじめ発生(いじめ加害)を抑制する可能性はあるが,いじめ発生後の被害者援助につながる要因である可能性は低いことが考えられる。 以上より,いじめ場面における第三者がいじめ解決に向けた援助行動をとるかどうかには,状況要因,被害者の要因および第三者自身の要因が影響していると考えられる。ここでの状況要因とは,具体的には他の第三者の行動や気持ちであると考えられる。さらに,状況要因の把握には,第三者自身の要因が影響しているだろうことが予想される。竹内・武井・東條(2015)は,「援助行動に対して,自分または周囲の人が援助行動をとることについて賛成,期待していることが多いほど被害者のいじめのそばにいてあげたいと思ったり,加害者にいじめをやめるように説得したいと思ったなどの援助意図が高まる」こと,「いじめ場面に遭遇した時に,それが正しいと思う,あるいは自分には解決できるだけの力があると判断した場合にいじめの仲裁に入ったり,被害者を助ける行動に移行しやすい」ことを明らかにした。 つまり,他の第三者が援助するだろう,他の第三者は自分の援助を肯定するだろう,あるいはサポートするだろうと第三者が考える際には,第三者自身が置かれている状況の把握が影響するだろう。そして第三者が援助行動に至るには,第三者が自分ならできると考えることが,第三者の援助行動に影響すると考えられる。他の第三者とはだれかについては,日本のいじめは教室で多く起こるという指摘(鈴木,2012)から,他の第三者とは,同じ学級の子どもたちや学級に存在する教師であると考えられる。 4-3.集団内地位 では,教室にいる人物であり,自分の援助を他の第三者は肯定するだろう,あるいはサポートするだろうと考え,自分には援助ができるだろうと考えるのはどのような人物だろうか。鈴木(2012)は,教室内には集団内地位があるとし,子どもたちは自分が学級集団内でどの地位とみなされているかということに敏感に反応しながら学校生活を送っていると指摘し,集団内地位が上位の子どもは,自分自身は学級に影響力があると理解していること,学級内で子どもたちは自身の地位に見合った振る舞いを考えてしていることを明らかにしている。また,集団内地位が上位の子どもたちを,他の子どもたちは人気があると認識していることを明らかにしている。さらに,子どもたちは,学級集団内の地位が上位の子どもは下位の子どもより先生との親密性が高いことを明らかにしている。 以上から,いじめ場面において援助行動をとりやすい第三者とは,学級集団内地位が上位である,クラスの人気者であると考える。ここでの人気者とは,「学級集団内地位が高く,他者は自分の行動を肯定するだろう,サポートするだろう,ある行動が自分にはできるだろうと考える者」と定義する。 4-4.公正世界信念 いじめ問題についての議論には,しばしば「いじめられる側にも問題がある」という言葉が登場する。日本におけるいじめ研究の黎明期に,「いじめられっ子」の性格特性等とともに「いじめられっ子」の性格特性等に関する研究が見られるのは,そうした考えの存在を表していると言えるだろう(たとえば,杉原・宮田・桜井,1986)。この「いじめられる側にも問題がある」というのは,一見そのようにも思えるだろう。一般的に人は何も悪いところがないような,何も問題のないような人が,突然仲間はずれにされたり,殴られたりすることは,そのような不公正なことはないだろうと,そう思って生きているのではないか。こうした,「悪いことをすれば,ばちが当たる」といった信念は,日本では因果応報と呼ばれているが,海外では公正世界信念(Lerner&Miller,1978)と呼ばれている。公正世界信念は「正当世界信念(今野・堀,1998)」や「公正世界信念(村山・三浦,2015)」という日本語に訳されている。公正世界信念とは,正の投入には正の結果が伴い,負の投入には負の結果が伴うような世界であると信じる傾向であり,公正世界信念の強い人物は自らの信念に一致するように因果関係を認知する傾向,言い換えれば,公正世界信念 には「正の投入(負の投入)」から「正の結果(負の結果)」を予測させ,「正の結果(負の結果)」を「正の投入(負の投入)」に帰属させる認知的な働きがあるといわれている(今野・堀,1998)。 この信念の形成には幼少期からの経験が影響するという(Bennett,2008)。そして,信念を覆すような刺激に接すると,脅威にさらされる。被害者と自分に類似点がある場合や,被害者が被害にあった原因をどこにも帰属することができない場合(Correia&Vala, 2003;Correia,Vala,&Aguiar,2007)に,罪のない被害者の人格を傷つけたり被害者を非難したりすることで信念を維持しようとする傾向がある(Warner,VanDeursen,&Pope,2012)という。 以上より,「被害者にも問題がある」という言葉を解釈することができよう。つまり,いじめ被害に遭っているという負の結果を見たことにより,その背景には負の投入があると考えるため,「被害者にも問題がある」という言葉が登場するのだろう。公正世界信念を信じることで生じうる被害者非難は,罪のない被害者を傷つける。しかし,同時に公正世界信念が維持されることによって,世界は安定して秩序のある環境なのがという認識が提供される(村山・三浦,2015)。 公正世界信念の強弱には個人差が存在し,また,被害者と加害者が顕在化した際,公正世界信念の下位概念である究極的公正世界信念と内在的公正世界信念では両者への反応が異なる可能性があるという(村山・三浦,2015)。「究極的公正世界信念」とは,被害は将来に埋め合わせされると信じる傾向であり,自分が知るに至らなくとも,被害は将来的に回復されると考え,また被害の回復は現世ではなく来世でも構わないという宗教性の強い長期的視点を含む信念であり,内在的公正世界信念と比較して,その信念維持のための関係者への援助や被害の埋め合わせ,出来事の認知的再解釈といった実質的・心理的な努力を必要としない(Hafer&Begue,2005;Maes,1998;Maes&Schmitt,1999)信念である。「内在的公正世界信念」とは,ある出来事(特に負の結果)が起こった原因を,過去の行い(負の投入)によるものと信じる傾向であり,得られた結果には正義が内在すると考える(Hafer&Begue,2005)。幼児期からの報酬・罰の経験などを通して形成,強化される(Bennett,2008)信念である。そして,村山・三浦(2015)は,究極的公正世界信念は厳罰指向や秩序維持とは無関連や負の関係を示したが被害者との間の心的距離の大きさと関連すること,内在的公正世界信念は加害者への厳罰指向や非人間化と関連すること,被害者非難とは関連が見られないことを明らかにし,内在的公正世界信念の強い者は,加害者が存在する場合には加害者への否定的反応を通した信念維持が優先され,相対的に被害者非難が行われにくくなる可能性を見出している。 以上より,公正世界信念の中でも,究極的公正世界信念が強い第三者はいじめ場面において,いじめられた者はそのうち救われるだろうと考えることで,行動としては無関係を装うことが考えられ,傍観行動をとることが考えられる。また,内在的公正世界信念が強い第三者は,いじめ加害者に対して罰を与えようとしたり,非難を行ったりすることが考えられ,結果被害者を援助する行動をとることが考えられる。 以上より,本研究ではいじめ場面での第三者のいじめ関連行動を左右する要因として,集団内地位,公正世界信念に着目し,その影響を検討する。