【問題と目的】

1. 諦め

1-1. 「あきらめる」とは

 「諦める」について、新村(2008)が編集した広辞苑第六版においては、「仕方がないと断念したり、悪い状態を受け入れたりする。」とある。「諦め」は一般的に、「諦めるな」、「仕方ないから諦める」というように、否定的な文脈に結びつきやすいものであると考えられる。井上(1999)による、バスケットボールを題材にした漫画『SLAM DUNK』の登場人物のセリフの、「諦めたらそこで試合終了ですよ」は多くの若者が知る名言であり、『SLAM DUNK』のように、「諦めない」ことの大切さを伝える創作物は多く存在する。また、スポーツ選手やタレントなど、大衆の憧れとなるような人も、「諦めない」ことの大切さを主張することが多い。元テニスプレーヤー松岡修造の、「諦めないを諦めるな!」などの「諦めない」ことの大切さなどをまとめた、日めくりカレンダーである、『まいにち、修造!』は2015年度の「『現代用語の基礎知識』選 2015ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに選ばれた。『SLAM DUNK』も、『まいにち、修造!』についても、多くの人に受け入れられているものであり、その背景には、たとえ厳しい状況に置かれても、「簡単に諦めることは悪いことだ」と考える人が多いため、これらのものによって励まされる人がたくさんいると考えるのが妥当であろう。このように、現代の日本社会において「諦めない」ことが大切だという風潮が存在することが覗え、諦めは否定的に捉えられていると考えられる。その背景には、諦めが精神的健康に悪影響を及ぼすからであると考えられる。ストレスにどのように対処していくかということに着目した、コーピング研究においては、諦めが精神的健康負の影響を与えることが示されている。神村・海老原・佐藤・戸ヶ崎・坂野(1995)が作成した、ストレスへの対処方略頻度の個人差を測定するTAC-24では、「諦め」は、"放棄・諦め"として、問題回避因子に分類され、鈴木(2004)では、TAC-24(神村ら、1995)を用い、大学生と成人を対象に研究を行い、回避型コーピングがストレス反応を高めることが示された。小杉ら(2004)が行った社会人を対象に行った研究では、「諦め」と「逃避」を合わせた「問題放置」コーピングが「憂うつ感」や「疲労感」を高めることを報告している。これらの研究においては諦めがストレッサーになるという結果が導かれ、諦めないことが大切だということは、先行研究においても支持されている。
 しかし、広辞苑第六版(新村、2008)には、「諦める」と対照的な「明らめる」という言葉も掲載されている。「明らめる」は、「@明るくさせる。A事情などをはっきりさせる」であり、これは肯定的な文脈で使用される言葉であると考えられる。例えば、島田(2011)は、日本語における「諦める」と英語における「諦める」("give up"や"resignation"と訳される)を比較し、英語においては諦めをネガティブな行為であるとみなしており、日本語においては、ポジティブな要素を含むものであると指摘している。このような諦めを肯定的なものと見る背景には、諦めが精神的健康に良い影響を及ぼすこともあるからだと考えられる。上田(1996)は、自己評価の低い人がそのことを認めたうえで、"しょうがない"と感じることを"上手なあきらめ"と定義した。上田(1996)は、まず「人とうまく付き合っていける」などの項目についてはい・いいえの2件法で自己評価させ、その自己評価についてどう思っているか尋ねた。その結果、自己評価の低い人のみ、その自己評価に対しての肯定度が高いほど、自尊感情が高くなる事が明らかになった。Wrosch・Miller・Scheier・ Pontet(2003)では、目標達成が不可能な状況での諦めについて研究された。Wroschら(2003)は目標へのコミットメントをやめることを目標への非関与とし、新たな目標を定め、その目標にコミットメントしていくことを目標への再関与とした。目標達成ができない場合、目標への非関与、目標への再関与が高いことは、いずれもストレスを低めることが示されている。目標への非関与、目標への再関与は目標の放棄であり、諦めにあたると考えられる。これらの研究では、諦めにおいても適応的な側面があることが明らかにされている。このように「あきらめる」には精神的健康に良い影響を及ぼす側面と精神的健康に悪い影響を及ぼす側面があることが分かる。

1-2. わりきり志向

 諦めることの正負の意味合いを分別するものとして浅野(2010)の研究を取り上げたい。浅野(2010)は、諦めの意図に着目した「わりきり志向」という概念を提唱した。村山・及川(2005)は、ストレス対処における回避方略について、「たとえ行動レベルで回避的であっても、目標レベルで回避的でなければ非適応的にならない」とした。村山ら(2005)はテスト習慣にカラオケに行くようなシチュエーションをあげてこれを説明している。「テストというストレッサーから現実逃避をするためにカラオケに行く」と「テスト習慣の気晴らしとしてカラオケに行く」という2つの行動は、どちらも「テスト習慣にカラオケに行く」という行動において「行動レベル」で回避的なものであると言える。しかし、「現実逃避」と「気晴らし」というように「目標レベル」において、2つの行動は異なるものである。「気晴らし」は、カラオケ後にリフレッシュした状態で勉強をすることを目的とするものであり、「テスト習慣の気晴らしとしてカラオケに行く」ことは「目標レベル」において回避的でないと言える。
 このことを踏まえ、浅野(2010)は、回避的な方略である「諦め」概念についても行動レベルで諦めていても、目標レベルで諦めていなければ非適応的にならないと考えた。この場合における目標レベルで諦めていない状態とは、「別の目標を達成するために達成不可能である目標を諦める」といったような、意図や目標を持った諦めである。このことを踏まえ、浅野(2010)は、「個人が葛藤状態にある際に目標レベルでの諦めを有する個人傾向」と定義される、「わりきり志向」を提唱し、この「わりきり志向」を測定する尺度である、わりきり志向尺度を開発した。
 この「わりきり志向尺度」の下位因子は、「わりきりの有効性認知」と「対処の限界性認知」であり、わりきりの有効性認知は「他の問題や課題への移行が自身にとって有益であるという前向きな志向性」を示す因子と説明され、目標レベルでは諦めないような意図を持った諦めを意識しやすい認知傾向を表すものである。対処の限界性認知は、「問題や課題に対する対処の限界を動機として、問題や課題に対する対処をやめるという志向性」を示す因子と説明され、目標レベルにおいて諦めているような、明確な意図のない諦めを意識しやすい認知傾向を表すものである。
 わりきりの有効性認知は抑うつに負の相関(浅野、2010)、人生に対する満足感に正の相関、不安に負の相関(浅野・羽鳥・樫村・石村、2013)を示し、対処の限界性認知は抑うつに正の相関(浅野、2010)、不安に正の相関(浅野ら、2013)を示し、葛藤状態において意図を持った諦めを意識するかという認知傾向が精神的健康に影響するのであると考えられる。

1-3. 青年期における諦め

 諦めは、年代とともにとらえ方が変わっていくものであると考えられる。Brandtst?dter・Renner(1990)は目標に対して、固執し、不屈に対処していく傾向を測定するTenacious Goal Pursuit( TGP)尺度、目標に対して、目標を下げるなど、柔軟に対応していく傾向を測定するFlexible Goal Adjustment(FGA)尺度を作成し、縦断的調査を行った結果、年齢が上がるにつれて、TGP尺度の得点が下がり、FGA尺度の得点が上がるということが明らかになった。人は、歳を取るとともに、わりきった考え方を身に付けていくべきものであることが示唆されている。このように、人は年をとるにつれて、諦めたり、諦めについて肯定的にとらえたりすることが重要になると考えられる。そのことを踏まえると、青年期は、将来の可能性が大きく、体も健康であることが多く、頭もよく働くため、相対的に諦めずに努力することが必要である年代であると考えられる。諦めは青年期においては建設的な役割を果たさないのだろうか。
 大橋(2009)は、日常生活に大きな変化を求めるライフイベントに遭遇した時に、諦めに遭遇せざるを得ないと述べ、中高年期の人に対して面接を行い、諦めのライフイベントとして、「死別」、「病気・けが」、「子どもの成長」、「家族・親類との関係」、「恋愛」、「進学・職業選択」、「職業での問題・軋轢」を抽出した。青年期においても上記のライフイベントの中の「家族・親類との関係」、「恋愛」、「進学・職業選択」については中高年期の人と同様か、もしくはそれ以上に体験するものであると考えられる。このことより、中高年、老年期だけでなく、青年期においての諦めにも建設的な意味合いがあることが言える。
 また、青年期の諦めには他の年代とは違う意味合いを持つことが考えられる。山田・渡部(2009)は、就職活動の場面において現代社会の青年が「やりたいこと」を実現することに重点を置いているが、実際には全ての人がやりたいことを実現できるわけでないことを主張し、若者が「やりたいこと」から「やれること」に移行していくプロセスについて研究を行った。山田ら(2009)は、そのプロセスの中で、「やりたいこと」に囚われている状態から解放され、新しい視点を獲得するプロセスを、ポジティブな諦めであると指摘した。このように、青年期における諦めは、他の年代より、自分の持つ目標や理想と現実に折り合いをつけていくという側面が強いものだと考えられる。さて、ひとくちに目標といっても、そのあり方は多様なものであると考えられる。職業選択の場面を例に挙げてみると、「幼少の頃より、担任の先生にあこがれており、学校教師になる」といったように主体的な目標を持つ人もいれば、社会の風潮や、両親の進めに従い、安定した職業に就くような、ある種消極的な目標を持つ人もいる。また、「こうならなければならないのだ」思うあまり、目標に縛られてしまうような人や、目標を持っていない人もいるであろう。このように個人の持つ目標はそれぞれ異なる性質を持ったものであると考えられる。本研究では、個人がどのような目標を持っているかどうかによって、わりきり志向が精神的健康に及ぼす影響を明らかにすることを目的とする。

2. 志向性

2-1. 自我理想 Blosの青年期理論から

 Erikson(1959)は、「自我が特定の社会的現実の枠組の名で定義されている自我( a defind ego) へと発達しつつあるという確信」という感覚のことを自我同一性と呼び、青年期における発達課題として挙げている。青年期は、社会の中で自分の立ち位置を見つけるための模索をする時期であり、そのような模索には、それぞれが「かくありたい」といった、自分の進むべき方向を示すような目標を持つことは大きな要因となると考えられる。 本研究では、個人の持つ目標の質を捉えるものとして、精神分析の「自我理想」(ego-ideal)に関する理論を取り上げたい。Blos(1962,1985)の理論において、自我理想とは、超自我(super-ego)に対置されるものである。超自我は、両親や社会からの要請など、外的なものから望ましさを取り入れた自我の一側面であり、個人の「こうならねばならない」姿のイメージである。自我理想は、思春期に形成される、主体的な自分の目標であり、個人の「こうありたい」姿のイメージである。超自我は、エディプス・コンプレックス的な、同性の親と、自分の同一視の中で育まれるものである。また、自我理想は、青年期において、親から分離しようという心の働きがあり、その結果、同性の友人との関わりが促進される中で育まれる。この友人との関わりの中で、友人像を自分の理想や規範といったものに取り入れていった結果、自我理想が生まれる。自我理想は、次第に超自我に成り代わって個人の規範となっていく。自我理想は、個人と親和的であり、自己愛的完全さを生むものである。(Blos, 1962, 1985)
 西平(1990)は、このBlosの理論を高村光太郎の伝記資料の中に見出している。光太郎は仏具屋の父を持ち、幼少期には父親を絶対視して育った。この父親との同一視が光太郎の超自我となった。しかし、青年期には、光太郎は美術学校での経験を通して育まれた、「近代」やヨーロッパへの憧れを自身の自我理想とするようになった。光太郎は、父親の人としての浅ましさ、芸術のセンスのなさに気がつき、自身の中に入り込んだ父の影響力という超自我と、芸術を志す自身の自我理想の間で葛藤に苛まれる青年期を送った。このようにBlosの理論は、青年期の持つ目標の傾向性を表すものと考えられる。
 西平(1996)はこのBlosの理論をもとに、自我理想型人格、超自我型人格を提唱している。自我理想型人格は「個人の内面で、自我が衝動(イド)や超自我(スーパー・エゴー)と葛藤せず、調和がとれて、共働力(シナジー)となって発動できる、健康的なパーソナリティ」と定義され、また、超自我型人格は、「自我は、自己の衝動とも外界とも葛藤することが多く、とりわけ、超自我から『何々すべからず』、『何々を恥じよ』と厳しく命じられて、つねに気息奄奄とした状態にある型(タイプ)」と説明された。このような、自分が生きて何をしていくかということについての方向性について、若原(2003)は、Blosの理論を「志向性」という言葉を用いてまとめている。若原(2003)においては、志向性の定義は、「生き方全体が、何かに向かって方向づけられていること」である。本研究では、若原(2003)における「志向性」の定義を採用し、自我理想、超自我によって左右される個人の志向性により、諦めが精神的健康に与える影響の違いを検討する。

2-2. 志向性の測定方法

 茂垣(2005)は、前述した西平(1996)の概念をもとに、自我理想型・超自我型人格尺度(EI-SES)を作成している。EI-SESは、自我理想型人格・超自我型人格を、「志向性」、「べきの専制」の二軸を用いて分類する尺度である。茂垣(2005)においては、「志向性」の定義は、若原(2003)の定義を採用し、「生き方全体が、何かに向かって方向づけられていること」である。また、茂垣(2005)は、超自我型人格の特性として、超自我からの要請から、「〜すべき」と感じやすいことに着目し、Horney(1950)における、「べき(ねばならないの専制)the tyranny of should」という用語を用いてこれを定義している。茂垣(2005)によると、神経症者の特徴を「べきの専制」という用語を用いて、Horney(1950)は、次のように述べている。「<べき>が専制し、"今あるがままのおまえの不名誉な姿など忘れてしまえ。…この理想化された自己になることこそが重要なのだ。"という"内的状態"に縛られる。」この「べきの専制」が強い状態は、自我に対する目標の拘束力が強い状態(茂垣、2005)と説明される。この、「志向性」と「べきの専制」という概念を用いることによって、茂垣(2005)は、「志向性」が高く、「べきの専制」が低い人を「自我理想型(ego-ideal type: EI型)」、「志向性」が高く、「べきの専制」も高い人を「超自我型(super-ego type: SE型)」と定義し、自我理想型、超自我型人格の特徴を測定した。

3. 本研究の視点

3-1. 精神的健康の指標

 さて、このような志向性の違いは、わりきり志向が精神的健康に与える影響との関連が考えられる。本研究では、諦めが精神的健康に及ぼす影響において、2つの視点から考察したい。1つ目は、「抑うつ」である。抑うつは先行研究においても精神的健康の一指標としてよく用いられる。現代の日本において、うつ病は社会的な病理である。川上(2006)によると、日本のうつ病を過去12か月に経験した人の数は1~8%、生涯有病率は3~7%であり、欧米諸国に比しては低いが、高頻度の疾患であると捉えられている。青年期においても、うつ病のリスクがあるという指摘もある。及川・坂本(2007)は、青年期には、友人関係や職業選択など、様々なストレスイベントがあり、自己への内省が高まるため、抑うつ症状が出やすいと述べ、抑うつの予防プログラムを開発している。このように、抑うつは若者の精神的健康を測定するものとして有効であろうと考える。
 2つ目は、時間的展望である。時間的展望は、Lewin(1951)において、「ある一定の時点における個人の心理学的過去および未来についての見解の総体」と定義されており、白井(1994)は、時間的展望は「過去受容」、「目標志向性」、「現在の充実感」、「希望」からなるとされる。時間的展望を持つことは青年期において必要な発達課題であると考えられる。先行研究において、わりきり志向尺度と時間的展望の関連は直接に扱ったものはないが、大橋(2009)は、過去の諦めた出来事を振り返り、その出来事に対し「肯定的感情」を持つ人がいると述べている。過去に起きた出来事についてわりきり、過去についての見解を肯定的なものにすることができると考えられ、わりきり志向と時間的展望の過去との関連が示唆される。また、Nesse(1999)は分別ある諦め(sensible giving up)が希望を持つためには必要であると述べており、渡辺(2005)では、"Let it be"(なるがまま)という、諦めに似た感覚が希望の中核ではないかと示唆されており、希望という時間的展望における、未来についての見解についても、わりきり志向の関連が考えられる。

3-2. 本研究の仮説

 本研究の目的は、どのような志向性を持つ人が、諦めを活用するか検討することである。浅野(2010)は、意図のある諦めであるわりきりの有効性認知の精神的健康への正の影響、意図のない諦めである対処の限界性認知の精神的健康への負の影響を明らかにした。このうち、対処の限界性認知について、無目的に諦め、望みを捨てることは、どのような人においても抑うつが高まり、時間的展望を低減するものであると考える。しかし、わりきりの有効性認知が精神的健康へ与える影響としては、個人の志向性が関わってくるのではないか。
 茂垣(2005)では、個人の志向性の傾向を、志向性とべきの専制の2軸において捉えており、志向性が高く、べきの専制が弱い人を「自我理想型」、志向性が高く、べきの専制が強い人を「超自我型」とした。超自我型は、「自我は、自己の衝動とも外界とも葛藤することが多く、とりわけ、超自我から『何々すべからず』、『何々を恥じよ』と厳しく命じられて、つねに気息奄奄とした状態にある型(タイプ)」(西平、1996)であり、超自我からの「〜すべき」という要請より、固執的、完全主義的な目標を持ちやすい型であると捉えられる。Horney(1945)は神経症者の特徴として理想化された自己像をもち、その自己像にならねばならないと感じ、「〜すべき」という強制が働くことを指摘した。そのような神経症者の治療として、「患者に彼の理想化された自己像の全貌を自覚させ、彼が自己像の果す機能と自己像が彼にとって持っている価値とを、徐々に理解できるよう患者を助け、そして自己像が必ず惹き起こす障害を明示してやることである。そうすれば、患者は、理想化された自己像を保持するために支払う犠牲が高すぎるのではないかと、考え始める。」と述べた。すなわち、自分が厳しい超自我を持っていることを気づき、自己の志向性へ折り合いをつけることをある種の「諦め」として認知し、わりきりの有効性認知を通じ、抑うつや時間的展望を高めるだろうと考える。よって、志向性が高く、べきの専制が強い人はわりきりの有効性認知により抑うつや時間的展望を高めるだろう。
 西平(1996)における、志向性が高く、べきの専制が弱い、自我理想型は、「個人の内面で、自我が衝動(イド)や超自我(スーパー・エゴー)と葛藤せず、調和がとれて、共働力(シナジー)となって発動できる、健康的なパーソナリティ」であり、「〜すべき」だという信念に囚われない、自己の主体的な目標を持つ型である。そのような型においては、目標に向かってコミットせず、諦めることはストレスを生むと考えられ、わりきりの有効性を意識して抑うつを低めたり、時間的展望を高めたりしないであろうと考える。よって、志向性が高く、べきの専制が弱い人はわりきりの有効性認知により抑うつ、時間的展望を高めないと考える。
 また、志向性の低い人は、自己の方向性を意識することのできない、自我の弱い状態であると考えられる。Erikson(1959)において、自我の強さは、強くて正常な自我同一性( a strong normal ego identity)の形成に寄与するものとされている。長尾(1999)は青年期の自我強度の低さは、自我同一性についての葛藤や、不適応状態を喚起することを明らかにしており、実際に茂垣(2005)では、志向性は人生に対する違和感、抑うつに負の相関があった。これより、志向性の低い人は抑うつが高く、時間的展望の低い状態であると考える。茂垣(2005)は、志向性が低く、べきの専制も低い若者に面接調査を行い、「もし理想がかなわなかったらどう思いますか、どのように行動しますか。」と問うた時、「それなりに受け入れる」というような消極的な受容の傾向を示す発言をしたことを報告しており、志向性の低い若者にとって、わりきりの有効性認知は、葛藤や不適応状態を保留し、抑うつを低減するものであると考えられる。しかし、時間的展望との関連については、志向性の低い若者の諦めはモラトリアムを甘受するようなものであり、Erikson(1959)が、同一性が拡散した青年の特徴として挙げている、「人生は自分自身の意思によって生きられているのではなく、むしろ、偶発的なものにすぎないという感情、時間的展望の徹底的なせつな化」という状態に陥るものであると考える。?
 以上のことより、次の仮説を立てる。

1. 高志向性、高べきの専制の人において、わりきりの有効性認知は抑うつを低減し、時間的展望を高める。
2. 高志向性、弱べきの専制の人において、わりきりの有効性認知は抑うつ、時間的展望に影響を与えない。
3. 志向性の低い人において、わりきりの有効認知は抑うつを低減するが、時間的展望に影響を与えない。
4. 志向性の高低・べきの専制の強弱に関わらず、対処の限界性認知は抑うつを高め、時間的展望を低める。