総合考察
本研究では、神社に参拝する人と神様との関係において、現代の人が、日頃、神に何を期待しているのか、また神から何を得ていると認識しながら、神社とどのようにつきあっているのかということについて考察することが目的であった。
この問題について、筆者自身において特に信仰する宗教等があったわけではなく、また、この卒業研究を機に何かの宗教や神道を信仰していくという考えがあるわけではない。しかしながら、日本に住んでいて、またこの三重県伊勢市に住んでいて、伊勢神宮のことに何ら関心を寄せていないということはなく、自分自身においてもやはり伊勢にある神宮のことを意識していたことに気づいたところがあった。
それはまさに、そこに居る神様であり、日本人が意識するしないに関わらず、心のどこかに存在し、古来より一般民衆の心の安寧を提供してきた由緒正しき神宮であった。江戸時代より、一生に一度はお参りしたいとされた伊勢神宮は、それはいったいどのようなものか、本研究を通して筆者なりに勉強してきたが、神宮の存在というものが極めて偉大であり、人によっては大いなる心の拠り所であり、八百万の神の代表として、まぎれもなくこの国を代表する神社であった。研究を通して、少しは神道の在り方がわかったように思う。人間と神との関係というほど、大きな話をすることはないが、市井の人々の日々の暮らしのなかで、神社、とくに伊勢神宮とどのような関係を気づいてきたのか、少しは探ることが出来たと考えている。
今回、前半の日本の神社信仰の論考のところで、神社や神道の歴史を文献等を通して調べてみたところであったが、日本人の歴史において、神や仏とどのように付き合ってきたのか、それがやはり現代まで延々と続いている様子も理解できた。歴史のなかで、神道が実は相当大きなネットワークを形成していることもよくわかったところである。そして神への信仰というのが、日本の文化や社会をかたち作っている大きな要素の一つでありながらも、しかしそれが、宗教的な強い枠組みのなかで強制されているものではないということ、むしろ強制されていないのに、多くの日本人の心の中に棲みついているということも明らかになった。それは後半の事例検討のなかで、また、6吊の方に話を聴くことができたが、その方々のお話(語り)を通して、見えてきたことであもる。筆者なりに理解したことを書き記しながら、以下にまとめていきたいと思う。
神道について学んでいるAさんは、神道について現在学んでいる立場であり、そういった立場から特別な知識についてのお話しをしてくださった部分もあった。特に、最後の質問では、自分が学んでいる神道学科での資料を提示していただいて、「食前食後感謝の和歌《というものを教えていただいた。伊勢神宮への信仰という観点からみると、日頃から神道のことを学んでいるから、伊勢神宮のことはどうしても意識してしまうという。また、Aさん自身、神社に行くことが好きであったり、日本神話に興味を持っていたりと、神道を学んで行く上での自発的な行動も見られる上に、将来は神職として働くという展望を持っているところから、Aさんも神様を意識していると言える。
楽生として伊勢神宮に勤めているBさんからは、伊勢神宮で勤めているからこその意見を頂いた。伊勢神宮に勤める前と勤めている今とでは、伊勢神宮に対する気持ちに変化があったようである。すなわち、最後の質問の際に、「神様は目に見えない存在やけど確実に存在するものです。《と言い切っている。Bさんは、何かあると、神様の存在を思い出すようであり、Bさんの心の中にはいつも神様がいるということが分かる。
AさんもBさんも神職の方と同じように神様に奉仕するという点で、深い知識を持ちながら、それぞれがそれぞれに神様を敬っていたり、尊い存在として心の中に留めていたりする、ということが分かった。
ちなみに神職の仕事とは、神事や神社の運営に携わることであり、神主と呼ばれることもある。「宮司(ぐうじ)《を最高位とし、「権(ごん)宮司(ぐうじ)《「禰宜(ねぎ)《「権(ごん)禰宜(ねぎ)《「出仕(しゅっし)《という職階のほかに、神職の資格の「浄(じょう)階(かい)《「明階(めいかい)《「正階(せいかい)《「権正(ごんせい)階(かい)《「直(ちょく)階(かい)《という5ランクの階位が設けられている。このランクによって、つくことのできる職階も異なる。また、伊勢神宮には、権禰宜の下に、「宮(く)掌(じょう)《や「主(しゅ)典(てん)《といった職階がある。神職資格には、「浄(きよ)き明(あか)き正しき直(なお)き心《神道の徳目があり、そんな精神で、神様に奉仕している。
われわれ一般市民にとって、神職の方がどのような仕事をしているかはあまり知るところではないが、神様の間近で神様に「お仕え《するという気持ちというのは、通常の職場における幹部や上司に仕えて仕事をするのとは違って、目に見えない神様への「奉仕《なのだろう。また「神様は存在する《と断言されるのは、あえて神様が人間とは別の存在であることも意味しているような気がするし、神様と人間との間の領域としての区別が明確なのだろうと思う。神職の方の信仰の在り方はこのようなものと推察するところである。
伊勢神宮周辺の有吊な老舗の菓子店に勤めるCさんは、「伊勢神宮があるからこそ仕事をしていられる《であるとか、「伊勢神宮のおかげでここまでやってこられた《という思いを述べられた。
古くからある参道沿いの店は、江戸時代からずっと続いてきた店も多く、参道沿いは「お祓い町《として栄えてきた。昭和から平成の時代に、一時衰退した時期があったが、約25年前にCさんの勤める会社が中心になって「おかげ横丁《を作り、伊勢特有の古い街並みを再現整備したことによって、参道の人波は復活した。現在は年間650万人が足を運ぶ神宮前の観光拠点である。Cさんの勤める会社では、「おかげ参り《と「商いを続けてこられたのは伊勢神宮のおかげ《という2つの意味を込めて、その場所を「おかげ横丁《と吊付けたということである。神宮参道の茶店として、参拝後の人たちをもてなすことを生業として現在に至っている。
今でも、お店の始業前には、朝礼時に神宮遥拝をしており、会社として伊勢神宮を心の底から敬っているということがよく分かった。Cさんからは、「伊勢神宮のおかげで《という神宮に対する深い感謝の感情、気持ちが強く伝わってきた。
「伊勢神宮のおかげで《という発言が多く見られたほかに、伊勢神宮が本当に尊い存在であるという趣旨のお話もしてくださった。例えば、「日本人の誰しもがやっぱり、お伊勢様というようなことは知ってみえて、その神様をこの伊勢で祀られてて、そのおひざもとで商いをさせてもらっているわけなので、やっぱりそのことは絶対に忘れたらいけない《という発言や、「お伊勢さんはやっぱり存在自体が非常に大きいですし、だからと言って、敷居の高い感じがなくて、身近にあって、温かい感じもありますし、だけどやっぱり尊い存在って思うのです。《という発言である。二番目の発言は、実際に尊いと述べているところから分かるが、特に、はじめの発言には、「お伊勢様《というように「様《という目上の人に対する接尾語が使われており、そのような部分からも尊い存在であるということがひしひしと伝わってくる。
ともに伊勢神宮に何度も参拝しているというDさんとEさんは、それぞれのきっかけは異なるものの、深い信仰の気持ちが見られた。特に、2人に共通して見られたのは、「心をすっきりさせに行く《という趣旨の発言であった。また、2人とも、伊勢神宮に対して、「本当に偉大である《とか、「誇りである《とか、非常に尊く思っていることが伝わってきた。そうかといって、この二人ともが常に伊勢神宮を思い、執心しているというわけではないということも見てとれた。ごく自然な感じで、事ある時に思い出して、お参りをして、というサイクルであるらしい。常に思っている訳ではなく、また、神様に縛られている訳でなく、日常生活を営む中で、ときどき神様を思い出すということである。この点については、常に神と共に有るとされるキリスト教やイスラム教との違いが見られる。「ときどき《ではあるが、無意識のうちに神様のことを意識する。この表現自体は論理的に成立していないが、日本人にとって、神様の存在というのは古来より、こういう感覚なのではないかと思う。何かのきっかけで神様を思い出すのだが、そこに労苦はなく、ごく自然に神を思い、お参りしようという気持ちにスイッチが入るという具合である。神様を思い出してないうちは、全く神様のことを考えていないのではなく、困ったときの神頼みであったり、お天道様が見ているであったり、どこかそこら辺に神様が当たり前に居て、見守ってくれているという感覚なのである。
見守られているという言葉であるが、見張られているというものでもなく、見守られているということである。誰かが見ていてくれるから頑張れるといった感情と同じような感じではないだろうか。認めてくれる存在というか、そんな存在を心の中に置くことで、自身の安心感を高めるという意味あいが強いように感じる。
伊勢神宮に行ったことのある一般人のFさんは、毎年、初詣には行くようである。伊勢神宮の初詣者数は、ここ数年は40万〜50万人ということで推移している(年間参拝者数は800万〜1000万人)。多くの人が伊勢神宮に初詣で参拝するわけであるが、伊勢神宮に毎年必ず初詣に出かけるという人も多いはずである。
Fさんの中では、初詣自体は行事化しているそうで、別に伊勢神宮でなくてはならないということではないそうだ。伊勢神宮に初詣に行くのは、お参りが目的というよりは、お祓い町であるとかおかげ横丁といった、参道周辺のお店の方に興味があるようであった。しかし、Fさん自身、伊勢神宮の森に神聖な雰囲気を感じていたり、伊勢神宮には、大きなお願い事を叶えてもらえそうという印象を持っていたりと、伊勢神宮だけに当てはまるような感情を感じていることが分かった。
今回この六吊にインタビューをしたことで、それぞれがそれぞれの形で神様への信仰を持っていることが分かった。ここでの「信仰《というのは、必ずしも「神様を深く信じている《云々という話ではなく、神様とのつながりを何らかの形で認識しているということと考える。6人の方に、「神様を信じていますか《ということは聞かなかったものの、答えのなかで、「お参りに来ると何かを伝える《というあたり、神様とのつながりを意識しているのだと言える。
6人の方の、伊勢神宮にお参りに来たとき、敷地内に入ったときの印象は、それぞれ次の通りであった。
Aさん「すごく広くて、うっそうとしていて、なんかこうすごく神聖などころだな、荘厳なところだな《
Bさん「伊勢神宮は、何か感じるものが桁違いというか、比べられないほどすごい《
Cさん「空気感とか、雰囲気とか、宇治橋を渡ってからの空気っていうか、感じるものだったり、やっぱりなにか人を引き付けるというかそういうところがある《
Dさん「伊勢神宮の森に入ると、なんか気持ちが変化して、守られているっていうか、偉大なものを感じます《
Eさん「神秘的なところに来たな、というのと、なんか自分がその穢れを落としたような、そんな気持ちもあります《
Fさん「行ってみるとやっぱり神聖な雰囲気というか、木があって、ご神木があって、神聖な雰囲気で癒される《
いずれの人も、伊勢神宮の神聖さ、神秘さを感じているようであった。さらに、次のような見解があった。
Aさん「すごく近寄りがたい、という感じになるようなところではない《
Cさん「いつ行ってもあたたかく、迎えてくれるような感じはします。拒まれているような感じはしないです。本当にあまねく人がいて、分け隔てなくっていうかね、そういうのがやっぱり素晴らしいと思います《
Dさん「伊勢神宮っていつも同じたたずまいで迎えてくれる《
実際、Aさんの発言の中で、「本当にこう熱心な信仰心を持ってくる方もいれば、本当に観光という感じで、何かアミューズメントパークのような感じで来る方もいて…《であるとか、Bさんの発言のなかにも「日頃の感謝を伝えに来る人がほとんどだと思うけれど、実際、中には病気平癒や厄払いなど神頼みで来ている人もいます《というのがあり、神聖な場所とか、神秘的な場所と言うと、(特に神社は)人々を拒むというか、入りにくさを醸し出していまいそうではあるのに、それにもかかわらず、伊勢神宮は、そうでありながら、誰でも受け入れる、迎え入れるという特質を備えていることが指摘された。厳かな雰囲気や空気のなかで、万人を迎え受け入れる大きな神様の居る場所として、伊勢神宮が親しまれていることがよくわかる。
今回の六吊の中で、伊勢神宮との深いつながりを語ってくれたのは、DさんとEさんである。DさんとEさんが話してくれた内容で、他の人と少し異なる部分は、Dさんの「お参りもするけど、自分が、すがるためというか、気持ちを前向きに保つためというか《という話や、Eさんの「お願いというよりは自分が頑張りたいな、と思うときに行くという感じです《という話の記述から、伊勢神宮が「心のよりどころ《となっていると推測できるところである。その後に、Dさんは「神様にお参りできた、という安心感か何かが、心に生まれるのかな。心が楽になる要素として、そういう安心感があると思います《と述べている通り、DさんとEさんは、お参りをすることが、自身の安心感や心の安寧につながっているともいえる。それだけ、日常生活で神様を意識することも多いと推測できるし、生きていく上での原動力として、神様の存在(力)を信じて、神様とつながっていると言える。
いずれにしても、伊勢神宮に参拝することで、日常の平穏というか、心の安定や安寧を求めていることが分かる上に、われわれ人間は、そのようなものを神様から受け取っていると認識しているともいえる。これは六人全員に共通することであった。一方の神様側のことは確認のしようがないが、神様がわれわれ人間に何かを与えてくれているのだとしたら、私たちは、日常の平穏や心の安定や安寧を与えてくれていると認識しているのだと考えられる。
それに対して、われわれ人間は神様に何かを与えたりするようなことはないようで、神様と人間との間で何かを交換しているというような関係性は、少なくとも六人の話からは出てこなかった。これは、伊勢神宮の特徴であるともいえる話であるが、他の神社にもお参りに行くというEさんとFさんは、「他の神社では、お願い事をする《であると言っており、またCさんも「お願い事は氏神様にする《と述べていた。神社に祀られた神様に対して、合格祈願や恋愛成就、商売繁盛、交通安全、家内安全、健康長寿など、いろいろなことを「お願い《することも普通にあるわけであるが、Aさんが言うように「あのご本殿の前に立つと、なんかもうそんなこと思っていられないという感じになりますね。《とか、Dさんの「それって実際お願いしますって頼んでいる訳ではなくて、頼むところではないっていうので、頼むという感覚ではないです。むしろ、すごく無心で手を合わせる感覚です。あの迫力に無心になってしまうといってもいいかもしれない。《という発言を見ると、伊勢神宮は、個人的な欲求を達成するために何かを頼みお願いするところではなく、人間が穏やかに過ごせることを見守っている、そして1年穏やかに過ごすことができると、その御礼や感謝の気持ちを、本殿の前に立ってお伝えする、そういう関係性が成り立っていると言えるのではないか。そういう意味で、伊勢神宮は、他の神社と違って何か特別な力を持っていると言えるし、日本全体、日本に住む人たち全体をカバーする社だと考えられるのである。