問題と目的


 我々は、誰でも少なからず悩みや迷いを抱えながら生活しているものである。時には、その悩みが精神や身体に影響を及ぼし、さまざまな障害を引き起こすこともあるだろう。しかし、決してそのように精神や身体に障害をもたらすような悩みとまではいかなくとも、常に何かが心に引っかかっていたり、頭の中がモヤモヤしてスッキリしないということは誰にでもあるのではないだろうか。そのような日常生活での小さな悩みを、カウンセラーや精神科医に頼るまでも無く、自分自身でうまく処理し、日常生活を気分よく、活発に過ごせる様になれば、どんなに良いだろうか。その悩みや不安を少しでも解消して、日常生活に対する気分や活力を高める方法として、本研究では「書く」という行為に着目した。

 近年、「書く」という行為に注目した心理療法が多く見られるようになってきている。Stanton&Danoff-Burg(2000)は、ネガティブな思考と情動に焦点を合わせるような筆記によって、癌患者の身体症状が緩和し、医療機関への通院が減少することを明らかにし、また癌経験のポジティブな側面の筆記も健康に有益であるということを示している。また、Dauite&Buteau(2001)は、ニューヨーク市の学童を対象にした暴力予防介入で物語を利用した研究をしており、筆記が社会認知的発達および社会情動的発達を促進することによって健康を脅かす危険をどれほど減らしうるのかを明らかにしている。Brand(1987)は、小学校のガイダンスとカウンセリングの領域で、経験理解と内的自己統合を助けるための道具として、書記的方法を用いた実践活動について記述している。文通、日記、詩、などを随時に用いる他、書記的コミュニケーション法(生徒同士あるいはカウンセラーとの間でtalkingに代わってwritingで交流する)、構造化書記法(個人的問題や学業の改善のため自分の関心について構造化されたノートをとらせ、カウンセラーから統合的な回答や教示を与える)、そして創造的書記法(投影を明瞭化し、問題を探索し、治療的コメントを与え、気づきを深める)などを組み立てて、一定期間のプログラムを組んでいる。また、日記指導と呼べるような患者と治療者間の文書コミュニケーション(小松,1990)が行われていたり、役割交換書簡法(ロールレタリング)(春口,1987)や心理書簡法(新田,1992)等のような用語も耳にするようになってきた。行動療法においても自己記録として随所に書く作業が取り入れられている(祐宗・春木・小林,1984)。

 また、カウンセラーを介する心理療法としての書記法だけではなく、最近では、「書く」という方式を取り入れたカウンセリング独習書や自己成長のためのワークブックが多数出版されている(たとえば伊藤,1997)。 

 これだけ「書く」という行為の治療効果についての関心が高まってきた背景として、Lepore&Smyth(2004)は、次の3つの要因を挙げている。第1に、ペネベーカーら(Pennebaker,1989)が開発してきた筆記介入法がめざましい成功を収めてきたことだ。ぺネベーカーの「筆記表現」法では、人々はストレスフルな出来事に関して心の奥底にある思考と感情を数回に分けて筆記する。この筆記課題によって、喘息患者の肺機能の改善やリューマチ性関節炎患者の症状が緩和したり(Smyth et al.,1999)、情動的な愁訴や身体健康愁訴が減少したり(Greenberg&Stone,1992;Lepore,1997;Pennebaker et al.,1990)、対人関係と社会的役割機能が向上したりする(Lepore&Greenberg,Inpress;Spera et al.,1994)など、広い範囲での恩恵が生じることを示唆している。第2に、筆記介入法は今日の健康管理環境と厳しい費用の制約のなかで多くの臨床家や医療保険の専門家が探し求めている安価な治療法になるかもしれないということを挙げている。第3に、人々はストレス経験を他者に語りたいと思っているが、社会的な規制がはたらいたり、移動の障害があったり、適切なサービスを利用することができなかったり、個人的な抑制がはたらいたりすると、ストレス経験やトラウマ経験を他者に語る機会が著しく減少する(Lepore et al.,1996;Pennebaker&Harber,1993)。筆記はこれらの障壁の多くを取り除き、他者からのしっぺ返しを受けずにあらゆる場所でストレスに関連した思考と感情を表現できる方法である。

 では、「書く」ことには、どんな機能や効果があるのだろうか。「書く」行為の機能について、山田(1996)は、次の8つを挙げている。

@ 自己をみつめる:書くことによって、自分を客観的に見ることができる。自分の生き方や生きる意味の把握ができ、自分の長所や短所も理解できる。さらに書くことによって、過去をもう一度生きることになり、それが、現在の自己の把握につながり、未来への展望も見えてくる−すなわち、自己省察による一貫した自己の確立(アイデンティティーの確立)に役立つ。

A 創る喜び:書くこと自体が楽しく生き甲斐になっている。想像力を刺激し、何かを創り出す喜びがある。芸術家が芸術品を完成する過程に似た楽しさである。

B 癒し:書くことによって、辛いこと嫌なことなど自分をはき出す。自分をさらけだすことによって、心が開き、浄化され、安らぐというカタルシスと自己治療の効果がある。

C 伝え合う:一つは、自分の体験を他者に伝え、理解してもらえるという伝承性・記録性を意味し、もう一つは、対人的な交流の機会の増加を意味する。世代間と対人間のコミュニケーションに有効である。

D 発見:書くことによって、自分の考えの矛盾や不備に気付き、新しい見方や価値を獲得できる。

E 思い出す:過去を思い出しながら書く、書きながら、さらに詳しく過去や出来事を思い出す。すなわち、断片的な記憶を書くことによって統合していく作用がある。

F 論理・明確性:あいまいさが書くことによって明確になり、論理性・一貫性あるいは内的整合性が高められる。

G マイナス:書くことは、エネルギーと時間を要求する。それによって、心身ともに、消耗したり疲労をもたらす。また、時には、書くことによってさらに心理的に落ち込む状況に追い込まれることもある。

 このように、書くことの効果や意義は多くの研究によって明らかにされている。それらをふまえた上で、その効果を日常生活にも取り入れ、人が日常生活で悩んでいることや不安に思っていることなどを「書く」という行為によって改善することは可能だろう。「日常の不安や悩みの改善」を評価する際、個人個人でその不安や悩みも異なり、また何を以って「改善」とするのかも曖昧なため、本研究では、特定の書記方法の前後で、その不安や悩みに対しての「気分」がどれほど変化したのかを見ることにした。なお、Matthews et al.(1990)は「気分」を「少なくとも数分間持続する感情様の体験」と定義している。では、何を書けば、日常の不安や悩みは改善されるのだろうか。Pennebaker(1997)は、ネガティブな思考と情動に直面することを重視しているが、それが一時的に苦痛を生み出す場合がある(山田,1996)ことを考えれば、King(2001)の言うように、ストレスの原因のポジティブな側面に焦点をあわせることによって個人を調整することが最も有益であるのかもしれない。よって、本研究では、それらをふまえた上で、人が日常生活で悩んでいることや不安に思っていることなどを「書く」という行為によって改善し、気分を高めるためには、「何を書けばよいか」を明らかにすることを目的とする。その際、Lepore&Smyth(2004)が、筆記表現法によって最も恩恵を受けるのはどのような人なのかについて知ることも重要だと言っているように、個人の特性によって効果の差があるのかどうかも検討したい。

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