1 はじめに
「自分とは、何であるのか」と考えたことはないだろうか。このような自己に関する問いは、はるか昔から人々の関心事であった。古代ギリシャのデルフォイ神殿には、「汝自身を知れ」という碑文があり、自分を知ることが古代からの関心事であったことがうかがえる。近代では、「存在するとはどのようなことなのか」という課題とともに、自己について考えられてきた。「存在」についての考え方としては、「物があるから、見える」という実在論的な発想と、「物を見るから、存在する」という観念論的な発想(黒崎, 2000)の対立的な2つに大きく分けられるだろう。観念論では、世界に本当に存在するものは何もなく、主観が世界を作り上げていると考えるので、自分の存在さえも不確かなものとなる。このような不確かな「自己の存在」に関する言葉としては、デカルトの「cogito ergo sum(私は考える、ゆえに私はある)」が有名だろう。この言葉には、たとえ世界に何も存在し得ないとしても、「考えている自分の存在は疑うことができない」という意味が込められている(小林, 2000)。このようなことから「自分」について知覚する・される、ということは、自己の存在において重要な意味を持つと考えられる。
さて、人は日常的に、自分について知覚していると考えられる。「自分とは○○である」という、他の人とは異なる自分としての自己に関する理解、例えば、自分とは、学生である、日本人である、優しい性格である、数学が得意である…などの自分についての理解が、これにあたるであろう。これについては、社会人や外国の人、怒りっぽい性格の人など、比較対象が存在するからこそ、自分とは学生であり、日本人であり、優しい性格であるとわかる。もしも、世界に自分1人しか存在しなかったら、自己に関する理解は形成されないであろう。したがって、自己に関する理解とは、他者との相対的な比較によって形成されていくと考えられる。
一方、発達の極めて初期の段階では、自己と他者は未分化であるが、幼児期までには自分とは異なる他者の存在を理解すると考えられている(梶田, 1988)。このことから、人にとって初めて発見される「他者」とは、自他の分化が始まる乳幼児期に多くの関わりをもつ母親(養育者)であると考えられるだろう。このことから、自己に関する理解は、最初は母親などの養育者との関わりを通して形成されていくと考えられる。
ボウルビイ(1969)によると、長年、精神分析家たちは、養育者との関係が子どものパーソナリティの基礎になることを主張してきた。ボウルビイ(1969, 1973, 1980)は養育者と子どもとの関わりについて研究している。彼は、養育者に対する子どもの特別な結びつきを「愛着」と表現し、養育態度によって愛着がどのような性質をもって形成され、生涯においてどのような働きをするのかについて検討している。その中で、養育者との間に形成された愛着は、「養育者は自分の求めに応じてくれる人物であるのか」、「自分は、養育者から助けを与えられる人物であるのか」、という2つの視点からの作業モデルを形成し、その作業モデルに従った情報処理を行うようになると述べている。このことから、自己観と他者観の2つの視点からの作業モデルを持つ「愛着」は、他者との相対的な比較によって形成される「自己に関する理解」に影響を与えているのではないかと考えられる。
以上のことから本研究では、「自分とは、何であるのか」という問いを検討するため、「自分とは何によってどのように形作られているのか」という視点から、愛着に着目し、その性質によって自己に関する理解にどのようなちがいがみられるのかについて研究する。
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