1.喪失体験について
“ダウン症”という診断名告知を受けた後は,ダウン症児の母親は「まさか自分の子に障害があるなんて」というわが子に対する理想の喪失体験を経験する。これは,中田(2018)が明らかにしている“普通の子どもの母親”としての立場を失うという喪失体験の経験と一致しており,ダウン症児の母親は,わが子に障害があるという事実に失望,恐怖,不条理感などを感じていた。出生時の喪失体験は,子どもが成長してからも,ふとした瞬間に「もし自分の子がダウン症じゃなかったら。」というようにダウン症児の母親にとっての“普通の子ども”を失った喪失感として表れていた。
保育園への入園,小学校・中学校への入学といった子どもの発達の節目ごとに,ダウン症児の母親には苦悩が生じ,周囲の“普通の子ども”と比較してしまう自分にさらに苦しんでいたことが明らかになった。
また,産後直後に子どもの手術をしているダウン症児の母親は,出生してすぐに子どもの生命の危機を経験している場合がある。その時抱いた,子どもの存在そのものを失ってしまうかもしれないという喪失感はダウン症児の母親にとって最も辛い記憶として残っており,子どもを失う辛さが想像できてしまうからこそ,再び大切なわが子を失うかもしれないという不安や恐怖を抱いていた。このことが「少しでも今の状態を長く維持してほしい」という思いに繋がっていた。よって,出生時の状況が子どもの成長後においても影響することが示唆される。
喪失体験とはわが子に対する「理想の喪失」「存在の喪失」のみではないことが,本研究において示された。ダウン症児の母親は,診断名告知後「自分の子どもをきちんと育てよう」と夫婦で子育ての方針を決めるなど,障害のある子どもを育てる覚悟を決める。しかし,思うように子育てがうまくいかなかったり,悲しみから気持ちを持ち直すことができなかったりする経験から“理想の母親像”をも喪失しているのではないだろうか。
さらに「一つの講演会を聞いた時に,すべてがなくなってしまう喪失感に襲われるんですって言われて。そういう喪失感がだれにでもあるんですって言われた時に,自分だけじゃなかったんだって,その言葉のひとつに尽きるなって。その時にその先生の話を聞いて,やっとなんか自分も腑に落ちたっていうか。」のようにダウン症児の母親によっては,これまでの生活をすべて失うような,深い大きな喪失体験を経験する可能性も示唆された。
喪失体験は悲嘆や失望,恐怖といった感情を伴う。しかし,それほど大きな感情であっても,それらの感情が喪失体験と結びつくものとして認知されていないことがある。何かをきっかけに“喪失体験”を言語化し,母親が自身の感情に気づくことは,悲嘆や失望,恐怖といった感情が喪失体験によるものだと意識化することに繋がる。さらには,喪失体験は自分だけではなく多くの母親が経験するものであることに気づくことで,孤独感や苦悩を和らげることができるのではないだろうか。
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