5.ノスタルジアについて
前述のように,原風景の効果として,「ノスタルジア(nostalgia)」(ノスタルジーは仏語)の感情が喚起されると考えられる。いわゆる「懐かしさ」の感覚であるが,本論文では,日本語の「懐かしさ」ではなく,この「ノスタルジア」の概念をもとに検討を進めていく。
「ノスタルジア」は,17世紀後半に医学論文の中で掲げられた造語である。故郷から離れている人ギリシャ語のnostos(家へ帰る)とalgia(苦しんでいる状態=苦痛)に由来しており,故郷へ帰りたいと切なく恋いこがれるという意味をもつという(Davis,1990)。日本語の辞書にも,異郷にいて故郷を懐かしむ気持ち,過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち(大辞泉)とある。日本語の「懐かしさ」に対応する「ノスタルジア」は,あたたかいようなポジティブ感情と悲しいようなネガティブ感情が混合したアンビバレントな感情である(長峰・外山,2016)。
ただし,「ノスタルジア」は2種類に分類することができる。1種類目は,自分自身の体験のように,個人的な出来事に基づく個人的ノスタルジアと呼ばれるものであり(川口, 2014),人の記憶すなわち自分の過去を理想化する感情である(三宅,2018)。
このような意味において,居住地の近くに海がある人は,海で何かしらの経験や記憶をしていることが推測され,海を見ることで個人的ノスタルジアが喚起されると考えられる。一概に海といってもその形態は様々であり,「港」や「砂浜」,「磯」が存在するが,たとえば砂浜の近くに住む人(住んでいたことがある人)は違う場所であっても砂浜の景観を見ることで,個人的ノスタルジアが喚起されるのではないかと憶測される。
2種類目は,自分自身が体験していないにもかかわらず生じる歴史的ノスタルジアと呼ばれるものであり(川口,2014),自分が生まれる前の遠い時代に思いをはせ,再現された過去を理想化することである(三宅,2018)。Havlena, W. J.(1991)は,自分が生まれる前の時代への慕情(たとえば平成生まれの人が昭和の時代を懐かしむこと)について,自分自身の過去経験への慕情と同様に,あたたかさや幸福,安心感があるという。そのような意味において,原風景としての海の景観は,その場所のことを個人的に知らなくても,またその場所に実際に行かなくても,歴史的ノスタルジアを喚起させてリラックス効果を生み出していると考えられる。これを裏付けるように,楠見(2014)は,初めての場所であるのにもかかわらず,強い既知感,親近感,なつかしさを感じる現象であるデジャビュが起こる場所の一つとして海を挙げている。海の景観を実際に体験的に見なくても,頭のなかでイメージした風景や,観光地のパンフレットの写真を見ただけでも,ノスタルジアを感じることがあるのは,この歴史的ノスタルジアの感情が喚起されるためと考えられる。先の万葉集の時代から,日本人にとって海は親しみある存在であり,原風景としての海が歴史的ノスタルジアの感情を喚起させるものだと考えられる。
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