【問題と目的】
1.はじめに(1)


 「死」とは,生きるもの全ての未来に訪れるものである。仲村(1994)は,子どもが死を理解していく発達過程を明らかにしており,その中で,人間は9歳頃には大人と同じように死を理解するようになると述べている。
 
 このように,自分の未来には死が待ち受けているということを知っておきながら,我々は死というテーマをタブー視する傾向がある。デーケン(1996)は死のタブー視について,近代の傾向であると述べている。中世ヨーロッパでは,死は生涯をかけて学ぶべき芸術の1つとされており,多くの書物もあったという。それが,医療技術の進歩により,死は医療の敗北であるとの考えが生まれ,人は死をタブー視するようになった。

 現代の若者の死のタブー視はどうだろうか。現代の若者の死のタブー視について考えると,死を身近なものとして考える機会そのものが失われており,その結果として死のタブー視が生じているように感じる。厚生労働省が2018年に発表した世帯の状況の調査によると,三世代世帯が減少し,核家族世帯が増加している。また,厚生労働省が2011年に発表した死亡の場所別にみた死亡数の調査によれば,1980年頃から自宅での死亡数を病院での死亡数が上回り,それ以降病院死が増加している。これらから,現代の若者が高齢者と関わる機会が年々減少しており,死を看取る機会も減少していると言える。このような社会形態の変化が,現代の若者が死を身近なものとして考える機会を失わせており,結果として死をタブー視することに繋がってしまっているのではないだろうか。倉田(2008)や瀧川・田中(2012)が,核家族の家庭で育つ大学生の方がそうでない大学生よりも死について考えることを回避する傾向にあることを示していることからも,現代の社会形態が死をタブー視することに繋がっていると言えるだろう。

 しかし,メディア等では,死というテーマを扱った内容を目にすることは少なくない。実際は死のタブー視は解消されているのだろうか。澤井(2002)は,「死のタブーからの解放」が生じているのであれば,何を意味するのか,また,死のタブー視が残っているのであれば,それはどういった意味なのかといった視点から検討している。まず,死のタブー視については,その実質を「死にゆく者であれ,死別した者であれ,あるいは遺体に対してであれ,死を身に帯びた者との「関係」,すなわち,死を身に帯びた者に身体的に近づき,精神的に関わることに対する忌避の傾向の存在という点にある」と述べている。それに対し,死のタブーからの解放の実質について,「死や死別に際してのあるべき受容のあり方や行動様式を教示する「死のガイドライン」的な情報が情報空間に大量に流通すること」,「それがひとつの要因となって病院においても,末期がんの告知率の上昇や尊厳死の承認などにも見られるように,死がオープンに語られる傾向が見えてきているということ」にあるとしている。確かに死がオープンに語られる中で,それを自己に反映させ,選択肢とできるだろう。しかし,「死のタブー化は「自己の選択」に関わるものではなく,「他者との関係」に関わるもの」と述べ,死のタブーからの解放にもかかわらず,死のタブーは存続すると述べている。このように,死についてメディア等で多く語られるようになったからと言って,共感的に捉えることができる人であればそこから自らの選択肢を持つことができるが,やはり死を実際に身に帯びた者との関係といった点では死のタブー視が存続していると言え,本質的に死を身近なものとして考えることは少ないと言えるだろう。

 上記のように,死について身近なものとして考えることが減少し,死のタブー視がある反面で,医療の発達によって死について考える必要性が生じているとの指摘がある。現代の日本では医療技術の目覚ましい進歩により,平均寿命が延びてきている。これを言い換えれば自然死が難しくなっており,自分の死の形を自らで選択する必要が生じているということである。このような状況に対して,河合(1996)は「いかに生きるかだけでなく,いかに死ぬかを同等の重みをもって考えねばならない」と述べている。



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