観察結果A-1:観察エピソード


前へ トップページへ 次へ



2.対象児の自己理解・友人認知
 【A児】

<自己理解>
Aは、インタビューにおいては全体的に否定的な回答が多かった。同様に、観察においても否定的なエピソードが多くみられた。例えば、Aの自己理解の特徴として以下の否定的な自己理解が考えられる。それは、Aは自分のペースを乱されるなど、自分にとって嫌なことがあると自己を否定的にとらえやすいということである。具体的なエピソードとして以下の2つがあげられる。

【エピソード1:11月15日】
クラスメイトが使っている剣に対し、「おれにも貸してー」と剣を貸してほしかったが、貸してもらえず「ちぇっ、どうせやることねーんだろ」と言っていた。
ここでは、自分がやりたかったことができずに自己否定的な発言へとつながっている。Aの考えの中には、「今は相手が使う番だからその次に貸してもらう」という考えはなく、剣を貸してもらえなかったことで頭が一杯になり、貸してもらえなかったのは自分に原因があると考えていると思われる。

【エピソード2:11月19日】
観察当日、Aは他のクラスメイト1名と日直だった。朝の会を始めるのに、Aが「立ってください」と言ったが、一回で指示が通らなかった。すると、Aは黒板に自分の頭を2回打ち付けていた。朝の会が終わり特別支援学級へ向かう途中、Aはぶつぶつ小声で言いながら壁を蹴っていた。G先生に会い「おはよう」と挨拶をされたが、返事をせずに彼女の足を蹴っていた。。
エピソード2では、Aが自分の頭を黒板に打ち付けている。この行為は「自分の指示が通らなかった」ということが原因で起きたものだと思われる。指示が通らなかったことの原因を自己へと帰属させて、このような行動へ及んでいると考えられる。
これら2つのエピソードに共通していることは、出来事の原因を自分に帰属しているということである。このような理由の帰属の仕方は、Aが様々な可能性を踏まえた考え方をすることが苦手なことを示唆するものである。なぜならば、これら2つのエピソードにおいてAは、「今は他の人が〜しているから」というような他者を意識した理由帰属を行っておらず、多様な考え方ができていないと考えられるからである。
エピソード1・2のように自己否定的なエピソードが多い一方で、自己肯定的なエピソードもあった。

【エピソード3:12月12日】
卒業文集の作文を書いていた。Aは修学旅行のことについて書いていた。そこで、お土産を買うためのお小遣いの話になり、「おれもお金使えるようになったし」と得意げに言っていた。
これは自分のできることを理解した発言である。Aのこのような発言は、観察中もなかなかみられなかった。このエピソードで、Aは過去の自分と現在の自分とを比較することができ、その違いを理解し評価することができている。楠(2005)は、時間の流れのなかで自分の成長や変化を認識する力を「自己形成視」と述べており、Aが自己を肯定的にとらえる基盤になっていると考えられる。
以上のことから、Aは自分のすべてを否定しているのではなく自分のある部分を否定的にとらえていると考えられる。A児が自分のどのような部分を否定的にとらえているのか、手がかりになりうるエピソードがある。それが【エピソード4】である。

【エピソード4:11月28日】
 算数の時間。計算ドリルを20番までやることになっていた。するとA君は「10番まででいい?」とH先生に言った。H先生に、「何で量を減らしたいの?分からなかったら先生(筆者)に言い方を聞いてみな?」と言われ、私(筆者)に言い方を聞いたが、上手く言うことができずに「もういいや。全部やるか」と言った。その際、犬が暑いときに舌を出して「ハッハッ」というような行動をしていた。計算に取り組むときも「やってやるぜコノヤロー」と言いH先生にイエローカードをもらっていた。また、「がんばれA、がまんしろ」という発言もあった。そのときは計算につまっているときだった。「わからないときにコノヤローって言うの?」とH先生に言われ、「うんそう」と言っていた。
このエピソードから、Aがあきらめや我慢をしていることがうかがえる。エピソード1・2においても、Aはできなかった原因を自分に帰属し、我慢できなかった感情が「どうせやることねーんだろ」という言葉や頭を打ちつける行動となって出てきていると考えられる。
Aにとって我慢するということは、かなりのストレスになっていると思われる。なぜならば、Aの「がんばれA、がまんしろ」という発言から、Aは自分が我慢できなかったことを自覚していることがわかり、それを注意されることによって「また我慢できなかった」という否定感へとつながっていると推察できるからである。よって、自分が我慢できなかったときに自己否定的になり、その部分を否定的にとらえているのだといえる。

<友人との関係>
 インタビューの結果、友人認識質問に関して否定的な回答が多かった。それと同様に、観察エピソードにおいても否定的なものが多かった。観察エピソードの結果、Aの友人関係は次のような特徴があると考えられる。それは、Aは友人へ自分から話しかけることは少ないが、友人(クラスメイト)に対して「一緒に遊びたい」という思いをもっていること、その行動がAの特有の行動スタイルとなってあらわれている、というものである。そのことを顕著に表しているのが次に紹介する2つのエピソードである。

【エピソード5:12月6日】
給食の時間、Aの班の隣の班が盛り上がって、一人の女児が大笑いしていた。それを見ていたAは口を手で押さえてとても楽しそうに、時に机に突っ伏しながら笑っていた。

【エピソード6:11月26日】
体育の時間、跳び箱を片付けるときに、Aは楽しそうにふざけている男子児童3人のところへ行き笑い声をあげて楽しんでいた。3人のうちの1人の男の子が倒れると、Aも一緒に倒れていた。
これら2つのエピソードにおいて、Aはあたかも楽しさの内容を知っていて一緒に笑っているかのようであるが、実際にはAは楽しさの理由(なぜ友人が楽しそうにしているのか)を知らずに笑っている。Aがこのような行動をとる理由として、楽しそうにしている他者と「一緒に遊びたい」という思いをもっていることが考えられる。Aはこのような思いを抱えて行動しているが、エピソード5・6にみられるように、楽しくしている他者と表面上の同じ行動をすることがA独自の人付き合いのスタイルだと考えることができる。以上から、Aのこの行動の中に、「友だちと一緒に遊びたい」という思いがあることを推察することができる。
また、Aと友人との関わり方はお互いに積極的ではなく、必要なときだけ話す、ということが多かった。具体的には次のエピソードのようなものである。

【エピソード7:11月29日】
5時間目、体育館で6年生に対する中学校の生活説明会があった。説明会が終わり、筆者と一緒に帰っていたAは、私の背中を操縦機に見立てて「ビシューン」と言って遊んでいた。それを見ていた同じクラスの男子児童が隣にいた別の男児に対して「見てみ」と指をさし、何事か話していた。
Aに対してクラスメイトからの積極的なかかわりはほとんどなく、必要なときだけに話しかけたり、エピソード7のようにAの行動を遠巻きに見たりするという行動が多かった。A自身も友人への関わりはエピソード5・6にあるように、友人と同じ行動をするというものであり、Aとクラスメイトの間に「友人」という認識はお互いに薄いと考えられる。

<自己理解と友人認識との関連>
Aの自己理解と友人への認識との関連を観察エピソードから検討した。その結果、Aの自己理解と友人への認識の関連について次のことが推察された。それは友人に対する認識がAの自己理解へと影響している可能性があるということである。そのことを次に紹介するエピソードから追認する。

【エピソード8:11月15日】
3時間目の終わり頃に、H先生に「様子を見てきて」と言われて教室へ行った。すると、Aは机に寝そべっていた。その後、先生の所へ行き、席へ戻ると何事かを考えている様子であった。私が「何してるの?」とAの所へ行くと、昨日の音楽コンサートの感想を書いている所だった。Aは「A(下の名前)は、みんなで歌うのはコリゴリだ。」と書いた。その後、筆者が一番楽しかったものを書くようにAに言い、Aは「ラプソディーブルーのトランペットです」と書いていた。だが、その後もAは「でももうみんなで歌うのはコリゴリだ」と言っていた。
このエピソードから、Aは集団でいることに対して苦手意識を持っていることが考えられる。自分が楽しかったことも記述できているが、その後も「コリゴリだ」と発言していることから、「みんなで歌うこと」がAにとって相当なストレスとなっていたのだろう。このことに関連して、教員からの聞き取りを行った際に、Aとクラスメイトとの関係が変わってきていることが指摘されていた。その変化とは、以前は学級の友人と一緒に戦いごっこをしていたが、6年生になって遊ぶことがなくなりAは休み時間になると所属する特別支援学級へ来るようになったということだった。
以上のことから考えると、Aは交流学級やそのクラスメイトに対して居心地の悪さを感じていると考えることができる。また、この教員からの聞き取りと次のエピソードから、「一緒に遊びたい」と思っているAと他児の意識の間にズレがあることがうかがえる。

【エピソード9:12月6日】
給食の時間、お昼の放送でAの好きな歌がかかった。すると、Aはそれを口ずさみ出した。それを聞いていたAと同じ班の女児が隣の席の女児に、Aに視線を向けながら耳打ちをし、された女児はAを指さしていた。Aはそれに気づいて彼女たちの方をちらちら見ていた。Aの表情は女児らの様子をうかがうような笑いを浮かべたものだった。耳打ちした女児は、一昨日Aとトラブルのあった児童であった。そのトラブルというのは以下の通りである。 Aには爪をハサミで切る癖がある。彼の切った爪が先に出てきた女児の所へとんだ。彼女はそれをAに「やめてくれる?」と伝えた。それに対してAはイライラして「(女児の名字)ヤロウ」と、彼女がAのそばを通る度に言っていた。そのことを女児はJ先生に伝え、Aが謝って決着した(H先生談)。
このエピソードに出てくるAの「うかがうような笑いを浮かべた表情」は、女児らが自分のことを話しているということに気づいていることを表している。このことは、Aが周囲の他者に対して「一緒に遊びたい」という意識をもっていることを考えると、Aなりの行動で楽しさを共有しようとしていると考えることができる。その一方で、耳打ちをした女児がAとトラブルがあったことを考慮すると、Aのなかでは女児に対して「一緒に遊びたい」という思いと「話しかけても良いものか」という思いが葛藤しているのではないだろうか。そして、女児はAとのトラブルからAに対して「仲良くしたい」という思いはもっていないと考えられ、その意識のズレからAは居心地の悪さを感じていると思われる。
以上のことから、Aの自己理解と友人への認識には関連があると思われる。