*本調査*

考察



1.母親の「遊び観」が「遊び場面での母親のかかわり方」に与える影響について


(1) 〈遊びの教育観〉の遊び観から「母親のかかわり方」への影響
 共分散構造分析の結果,〈遊びの教育観〉から,〈母親中心のかかわり〉に正の影響をみられることが明らかになり,仮説1の「遊びに対して教育的な遊び観をもつ母親は,〈母親主導のかかわり〉をとるだろう」の部分が支持された (Figure 4) 。
 〈遊びの教育観〉の遊び観は,「遊びと教育を結びつけて考えることは必要である」「子どもの遊び方を見ていると,健全な発達をしているかどうか気になる」などの項目から成り立ったものである。そのことから,〈遊びの教育観〉は,母親の「遊びと教育を結びつけた考え」や「子どもの発達についての思いの強さ」を表しているといえる。また,遊び場面でも教育を意識している母親は,子育てにおいても,子どもの教育を重視していると考えられる。そのため,子どもに教えていく気持ちで積極的にかかわっていこうとしているのではないだろうか。したがって,子どもにアドバイスをするようなかかわりや,遊び方を母親が自ら提案するようなかかわりをとると考えられる。
 また,〈遊びの教育観〉から,〈受容的かかわり〉と〈相互やりとりのかかわり〉にも正の影響がみられた (Figure 4) 。一般的な育児書において,「子どもの発達にとって,子どもと一緒に遊ぶことが大切である」ということが,よくいわれている。そのため,教育熱心な母親は,子どもと一緒に遊ぶことを普段から意識し,子どもと一緒に遊ぶ機会を大切にしているのではないだろうか。したがって,子どもと一緒に遊んでいく中で,子どもを受け止めるかかわりや,子どもと一緒に楽しく遊ぼうとする姿勢が身についていったのではないかと考える。
 これらの結果は,遊びに「教育的な考え」をもっているからといって,必ずしも「教えるかかわり」ばかりをするのではなく,「子どもを受け止めたり,一緒に楽しく遊んだりするかかわり」もしていることを示唆するものと思われる。


(2) 〈遊びの負担感〉の遊び観から「母親のかかわり方」への影響
   共分散構造分析の結果,〈遊びの負担感〉から〈見守るかかわり〉に正の影響がみられることが明らかになり,仮説2の「遊びに対して負担をイメージする母親は,〈消極的なかかわり〉をとるだろう」の部分が支持された (Figure 4) 。
 「遊びは自由な時間が奪われる」や「遊びは疲れるものである」というような〈遊びの負担感〉の遊び観をもっている母親は,遊びに対して「負担」をイメージしているため,一見すると,遊び場面において,子どもとあまりかかわらないと予想される。しかし,結果より,子どもとの遊びに直接かかわらなくても,「子どもの姿を見守る」という意味で,遊び場面に参加していることが示唆された。
 その理由は2つあると考える。1つは,母親がかかわらなくても,子どもは1人で遊ぶことができるという考えをもっていることである。〈遊びの負担感〉の項目には,「子どもと一緒に遊ばなくても,子どもは1人で育つ」というものがあり,このことからも,〈見守るかかわり〉の「子どもが1人で遊んでいるとき,遊びに加わらない」のところに正の影響がみられたと考えられる。2つは,遊びに対して負担をイメージしている母親も,積極的にかかわることには負担を感じるが,子どものことは気になるため,子どもの姿を見ているのではないかということである。一般の育児書において,「子どもとの遊びが大事」ということがよくいわれている (佐々木,2001) ことからも,母親は,「子どもと一緒に遊ばないといけない」という考えをもっているだろう。また,幼い子どもを1人にしておかないようにする母親も多い。そのため,子どもの様子は気になる母親が多いと予想される。しかし,そう思う一方で,遊びを負担に思ったり,うまくかかわれなかったりするために,積極的にはかかわらないが,子どもと一緒にいて子どものことを気にして見ているのではないかと考える。したがって,〈遊びの負担〉の遊び観をもつ母親も,遊び場面において,〈見守るかかわり〉をしていると考えられる。
 また,〈遊びの負担感〉の遊び観は,〈母親中心のかかわり〉にも正の影響がみられた (Figure 4) 。「遊びは自由な時間が奪われる」,「遊びは疲れる」というように遊びに対する負担感をもっている母親は,一見すると,子どもとかかわることを拒んだり,子どもとの遊びが大切だと思いづらかったりすると考えられる。そのため,〈母親中心のかかわり〉の中でも,「自分のやりたいことを優先する」や,「子どもから遊びに誘われたとき,『また後で』と言う」という項目に影響があったと考えられる。しかし,「子どもにとって遊びは大切だ」ということが書かれた育児書 (佐々木,2001) などから,〈遊びの負担感〉をもつ母親も,遊びを負担に思う一方で,「子どもにとって遊びは大切である」,「子どもに誘われるから遊ばないといけない」というような思いも持っているのではないかと考える。そのため,〈母親中心のかかわり〉の中でも,「おもちゃの遊び方について,身振りや言葉で細かく伝える」や「子どもの遊び方に,アドバイスするように口を出す」というような,母親が中心となる「かかわり方」にも影響を与えているのではないだろうか。則内・青木・菊池・里村 (2004) は,育児困難観を持つ母親は,乳幼児との遊び場面において,子どもに合わせるかかわり方よりも,親のペースに引き込むような,親が主体となる方略や手段で介入することが多いことを明らかにしている。このことから,〈遊びの負担感〉の遊び観をもつ母親も,遊びを負担に思ったり,遊びに対して困難観を抱いたりしていても,母親が中心となるような「かかわり方」もしていると考えられる。
 〈母親中心のかかわり〉と〈見守るかかわり〉は,一見,相反するかかわりと考えられる。しかし,以上の結果から,遊びに対して負担感をもっている母親は,〈母親中心のかかわり〉もしているが,そればかりではなく,〈見守るかかわり〉を通して,遊び場面で子どもとのかかわりをもつことができることを示唆している。


(3) 〈遊びの受容・共感〉の遊び観から「母親のかかわり方」への影響
 共分散構造分析の結果,〈遊びの受容・共感〉から〈受容的かかわり〉〈相互やりとりのかかわり〉に正の影響がみられることが明らかになり,仮説3の「遊びを受容している母親は,子どもを受け止めたかかわりや,子どもと一緒に遊ぶというかかわりをするだろう」の部分が支持された (Figure 4) 。
 〈遊びの受容・共感〉は,「子育てにおいて遊びが大切だ」,「遊びはコミュニケーションの手段である」などの項目から成り立ったものである。それは,子どもとの遊びに対して肯定的なイメージをもっていることを表しているだろう。そのため,〈遊びの受容・共感〉の遊び観をもつ母親は,子どもと一緒に遊ぶとことが大切だと思っていると考えられる。そして,子どもと一緒に遊ぶ中で,「子どもとのやりとり」や「コミュニケーション」を大切にし,自分からかかわったり,相互のやりとりをしたりするだけでなく,子どもの様子もよく見ていると考えられる。そのことから,子どもの様子を見て,受け止めるというような〈受容的かかわり〉もすると考えられる。また,矢藤 (2000) は,母子のおもちゃ遊び場面において,「応答」によって子どもに働きかけることは,20カ月〜22カ月の子どもにとって発達を促す有効な「足場作り」の1つだとしている。「応答」によって働きかけることは,本研究の〈受容的かかわり〉と類似している。このことから,子どもを受け止め,「応答」するようにかかわる〈受容的かかわり〉は,子どもの発達にも良い影響を与えることを示唆している。


2.「遊び観」と「遊び場面でのかかわり方」が「母親の楽しさ」に与える影響について


(1) 〈子どもらしさを感じる場面〉への影響
 共分散構造分析の結果,〈子どもらしさを感じる場面〉へは,〈受容的かかわり〉から正の影響がみられることが明らかになり,仮説3の「子どもを受け止めた言葉かけをするような〈受容的かかわり〉をする母親は,〈子どもらしさを感じる場面〉で楽しさを感じるだろう」の部分が支持された。また,〈見守るかかわり〉からも正の影響がみられた (Figure4) 。
 〈子どもらしさを感じる場面〉は,「子どもが,あなたの予想できないような遊び方をしたとき」や「遊びの中で,子どもにこれまでと違う行動がみられたとき」というような項目から成り立ったものである。これらの項目から,〈子どもらしさを感じる場面〉は,子どもらしい一面を見ることができたときや,これまでとの違いを感じられたときを表しているといえる。このような場面で楽しさを感じる母親は,「それまでの子どもの姿」と「遊んでいる今の子どもの姿」との違いを感じるとることができる母親であると考えられる。そして,「予想と違った行動」に気づくことができるというのは,これまでの姿から,子どもが今,どのようにするかという予想が立っているからできることではないだろうか。そのため,「それまでとの違い」に気づくことができると考えられる。
 では,予想が立てられ,これまでとの違いに気づくことができる母親とはどのような母親だろうか。それは,日々の子どもとの遊びの中で,子どもの姿をよく見ている母親だと考える。〈受容的かかわり〉には,〈遊びの受容・共感〉の遊び観が影響していることからも,普段から子どもとの遊びを大切にしていると言えるだろう。そのため,子どもと遊ぶ機会を大切にし,子どもとの遊びの中で,子どもを受け止めるかかわりをとると考えられる。そして,〈見守るかかわり〉からも正の影響が出ていることからも,子どもの姿をよく見ていることがうかがえる。これらのことから,〈受容的かかわり〉や〈見守るかかわり〉をする母親は,普段から子どもの姿をよく見ており,「これまでとの違い」に気づくことができるため,〈子どもらしさを感じる場面〉で楽しさを感じることにつながっていると考えられる。
 これらの結果から,この2つのかかわり方に共通していることは,子どもの姿を見て,感じ取り,言葉かけやかかわりを行うといったことであり,それは,「子どもに合わせること」や「子どもを待つ姿勢」を大切にしたかかわりをする母親であることを示唆しているのではないだろうか。


(2) 〈母親の期待通りにいく場面〉への影響
 共分散構造分析の結果,〈母親の期待通りにいく場面〉へは,〈母親中心のかかわり〉から正の影響がみられることが明らかになり,仮説1の「〈母親主導のかかわり〉をする母親は,〈母親の期待通りにいく場面〉で楽しさを感じるだろう」の部分が支持された。また,〈受容的かかかわり〉と〈相互やりとりのかかわり〉からも正の影響がみられた (Figure4) 。
 〈母親中心のかかわり〉は,「子どもがあなたの考える遊び方通りに遊ぶようにかかわる」や「子どもの遊び方に,アドバイスをするように口を出す」という項目から成り立ったものである。それは,母親自身の考えが中心となったかかわり方だといえるだろう。また,〈受容的かかわり〉や〈相互やりとりのかかわり〉からも正の影響がみられたのは,「子どもが退屈にしているとき,一緒に遊ぶ」や「子どもが喜びそうな遊び方を考えながら一緒に遊ぶ」というように,子どもを受け止めたり,やりとりをしたりしながらも,母親が主体となってかかわっていることも予想されるからである。そのため,自分の思っていた通り,やった通りになることに充実感が得られるのではないかと考える。浅川ら (1999) が作成した「子育てにおける楽しさ」のカテゴリーの中には,「自分のペースに子どもがのる」や「自分の思うように育つ」というような「思い通りの育ち」で母親が楽しさを感じていることを示している。このことから,〈母親中心のかかわり〉によって,母親の期待通りにいく場面で楽しさを感じるのではないか。
 しかし,「母親の期待通りにいく」という場面は,項目内容から見て,子どもにとって楽しいと感じる場面であるか疑問である。それは,母親の思っている通りのことばかりを子どもにさせてしまったら,子どもの「○○したい」という気持ちが抑えられてしまうことが考えられるからである。しかし,「期待通りにいった」と感じられる母親は,それだけ子どもと積極的にかかわり,子どもから反応が返ってくることを待っていると考えられる。子どもにとっても,母親が嬉しそうに自分とかかわってくれることは,嬉しいことだろう。しかし,母親が中心になりすぎて,子どもをコントロールするようになってしまっては, 母子ともに楽しいと感じられる場面とはならないことが予想される。矢藤 (2000) は,母子のおもちゃ遊び場面で,母親が注意を向けている対象に子どもを向けさせようとする「転換」は,子どもによって無視されたり,注意共有ができなかったりすることを明らかにしている。このことからも,母親が中心になりすぎたかかわりになってしまうと,親子遊びを楽しむことはできないと考えられる。
 では,「母親の期待通りにいく場面」で母子ともに楽しさを感じられるときとは,どのようなときだろうか。それは,母親が中心になったかかわりをしながらも,母親が子どもを受け止めるようなかかわりをしたり,子どもとのやりとりをしたりするときであると考える。子どもが母親の期待通りにすることを母親が楽しむ中でも,〈受容的なかかわり〉も大切にすることにより,子どもは自分を受け止めてもらっていると感じられるため,子どもも遊びを楽しむことができるのではないだろうか。そして,子どもが母親の期待通りに遊ぶ中でも,母親が子どもを受け止め,積極的にかかわる中で,子どもの反応が返ってくることを母親も楽しむことができると考えられる。そのため,〈受容的かかわり〉や〈相互やりとりのかかわり〉からも正の影響が出ていたのではないかと考える。このことから,〈母親の期待通りにいく場面〉において,親子遊びを楽しむためには,〈受容的かかわり〉や〈相互やりとりのかかわり〉が重要になっていることが示唆される。


(3) 〈母親が主体になる場面〉への影響
 共分散構造分析の結果,〈母親が主体になる場面〉へは,〈遊びの教育観〉と〈受容的かかわり〉から正の影響がみられることが明らかになった。しかし,仮説1の「〈母親主導のかかわり〉をする母親は,〈母親が主体になる場面〉で楽しさを感じるだろう」の部分は支持されなかった。この〈母親が主体になる場面〉とは,「あなたから子どもの遊びに積極的にかかわっていくとき」や「子どもがやったことに,あなたが反応するとき」というように,〈母親中心のかかわり〉のような母親が主導になっているような場面ではなく,母親が主体となりながらも,子どもの反応を大切にした場面であると考えられる。そのため,仮説1が支持されなかったと考えられる。
 〈遊びの教育観〉の遊び観をもつ母親は,子どもと積極的に遊ぶことを重視していると考えられる。そのため,母親が主体となって子どもに教えたり,遊び方を提案したりすることによって,遊びや子どもへのかかわりに対する充実感や満足感が得られるのではないだろうか。そのことから,〈遊びの教育観〉をもっている母親は,母親が主体になる場面で楽しさを感じるのではないかと考える。
 しかし,この場面においても,〈母親の期待通りにいく場面〉と同様に,母親が中心になりすぎるようなかかわりをしてしまっては母子ともに楽しい場面とはならないおそれがある。そのため,ここでも〈受容的かかわり〉から正の影響がみられたことが重要であると考える。〈受容的かかわり〉の「子どもがやっている遊びのまねをするようにかかわる」や「子どもが退屈そうにしているとき,一緒に遊ぶ」のような「かかわり方」は,子どもを中心として考え,子どもを受け止めるようなかかわり方である。しかし,これらの「かかわり方」は,〈母親が主体となる場面〉にもなり得ると考える。それは,これらのような〈受容的かかわり〉は,母親が子どもの遊びの中に入っていき,その中で母親が主体になるように子どものまねをしたり,言葉がけをしたりしながら,子どもを受け止めてかかわることも考えられるためである。例えば,〈母親が主体になる場面〉の「子どもがやったことに,あなたが反応するとき」という項目もそれを表しているだろう。このように母親が主体となりながら,子どもを受け止めてかかわり,一緒に遊ぶことは,子どもにとっても,母親が積極的にかかわってくれ,自分を受け止めてもらえているという安心感も得られることから,より一層楽しさを感じられるのではないだろうか。したがって,〈母親が主体になる場面〉においても,〈受容的かかわり〉は重要であることが示唆されるだろう。


(4) 〈相互のやりとりをする場面〉への影響
 共分散構造分析の結果,〈相互のやりとりをする場面〉へは,〈受容的かかわり〉から正の影響がみられることが明らかになり,仮説3の「子どもを受け止めた言葉かけやかかわりをする母親は,〈相互のやりとりをする場面〉で楽しさを感じるだろう」の部分が支持された。また,〈遊びの受容・共感〉の遊び観からも正の影響がみられた (Figure 4) 。
 〈相互のやりとりをする場面〉は,「子どもと一緒に遊んでいるとき」,「子どもと一緒に同じ遊びをくり返ししているとき」,「子どもと目と目が合うとき」という項目から成り立ったものである。このことから,母親は,「子どもとのやりとり」を楽しんでいると考えられる。そして,子どもを受け止めた言葉かけやかかわりをすることによって,子どもの反応を楽しんでいるのではないだろうか。そのため,〈受容的かかわり〉から正の影響がみられたと考えられる。そして,戸田ら (1993) は,縦断的に母子遊び場面を観察し,母親の模倣反応が乳児の言語理解や,ごっこ遊びのような象徴的遊びの促進に影響していることを明らかにしている。このように,子どものまねをするような〈受容的かかわり〉は,子どもの発達にも良い影響を与えていることを示唆している。
 また,〈遊びの受容・共感〉からも正の影響がみられたように,遊びを受け止め,親子遊びを重視した考えは,実際に子どもと一緒に遊びたいという思いが強いと考えられるため,積極的に親子遊びをするだろう。それにより,〈相互やりとりの場面〉を経験することが多くなり,その場面で楽しさを感じるのではないかと考える。



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