【総合考察】


本研究は、子どもの頃の親との関係および青年期における親密な他者との関係の在り方が、今現在、一般的な対人関係や日々の生活における幸福感に対して、どのような関連をもつのかという点について、愛着理論から検討するものである。これまでの青年の愛着研究において、愛着ないし内的作業モデルというものは、特定の関係性を超えて、その後の対人関係様式全般にまで幾分かの影響を及ぼすものであるとの仮定においてなされていた。しかし、近年、ごく小数の研究者たちによって、愛着および内的作業モデルの発達的変容の可能性というものが指摘されつつある。

本研究には2つの目的があった。第1の目的は、愛着理論における初期の対象すなわち親への愛着は、青年の対人関係の持ち方に対して主だった影響力をもつのか、そしてそれに対して親以外の対象への愛着の影響力はどの程度なのか、また、親への愛着のうち対象が父親か母親か、親以外の対象への愛着のうち対象が同性の友人か恋人(または恋愛対象として好意を抱いている人)かについて、対象の違いによる差および性差について検討し、愛着の発達的変容の可能性を明らかにすることであった。

親への愛着および親以外の対象への愛着と、対人的構えとの関連について検討したところ、過去の親への愛着よりも現在の親以外の対象への愛着の方が、一般的な他者への対人的な構えにより影響を与えているということが明らかになった。そして、男性よりも女性の方が特に、親以外の対象への愛着から影響を受ける傾向がみられた。これは、対人的な構えが一般的な対人関係の認識に基づくものであり(宗岡,2002)、母親および父親に対する愛着よりも、友人や恋人を含む一般的な他者への親密性(intimacy)について、その関係の在り方をみていることを考慮すると、今回の結果は支持されるものといえるのではないだろうか。

そして、青年の親への愛着は、父親よりも母親に対する愛着がより良好であることが明らかになった。これは、青年は父親よりも母親に対する愛着が高いという宗岡(2002)の示唆を支持するものといえる。これは、乳幼児期における養育者は主に母親であること(Bowlby,1969;佐藤,1993など) が大きく影響していると考えられるのではないだろうか。

また、青年の親以外の対象への愛着の持ち方は、友人と恋人では異なるということが明らかになった。これまでの青年の愛着研究では、青年期における親以外の愛着対象である友人と恋人に対する愛着は、両者の愛着が同方向のものとして扱われるものや、兄弟や祖父母など他の愛着対象とまとめて扱われるもの、または友人への愛着、恋人への愛着のどちらか一方を扱われるものが多く、友人と恋人に対する愛着の質的な違いについて、直接的に検討されているものはあまりみられない。本研究では、両者の愛着の質に違いがみられたが、それらの愛着の構造や役割、機能について検証するに至らなかったため、今後更なる検討が必要であると考えられる。

さらに、愛着は対象に関わらず性差がみられた。男性はすべての愛着対象からネガティブな影響を受けやすいのに対して、女性は母親からネガティブな影響を受けやすく、友人と恋人からはポジティブ・ネガティブのどちらの影響も受けやすいということが明らかになった。さらに女性は、「依存」と「不安」といったネガティブな影響を、対人関係における親和性を高めるというポジティブな影響に変容させる傾向があることが明らかになった。これは注目すべき点であり、今後の更なる検討が必要であると考えられる。

第2の目的は、親への愛着・親以外の対象への愛着および一般的な他者への対人的構えは、青年の日々の充実感にどのような影響を与えているのかを検討することで、青年にとって親密な他者という存在の重要性を明らかにすることであった。

親への愛着および親以外の対象への愛着、対人的構えと、充実感との関連について検討したところ、親への愛着から充実感への関連はみられず、親以外の対象への愛着と対人的構えが、充実感に影響を与えているということが明らかになった。このことから、青年期以降には親以外にも重要な愛着対象をもつようになり、親との関係のもつ意味は乳幼児期に比べ相対的に小さくなることが示唆されたとともに、青年期において、親友や恋人といった親以外の重要な他者との間に、親密で良好な関係を形成することの重要性が改めて明らかにされたといえるのではないだろうか。

よって本研究では、愛着および内的作業モデルが、後の経験の中で常に再構成されるという、発達的変容の可能性が明らかにされたといえるのではないだろうか。このことは、たとえ乳幼児期に養育者との間に良好な愛着関係をもつことが出来ずに育ったとしても、その後に出会う愛着対象との関係の築き方次第で、個人が過去に持った愛着ないし内的作業モデルを、より良好なものに変容させることが可能であることを示唆するものと考えられる。