1. はじめに
職場の人間関係や学校の友人関係などの対人関係を形成する手段の一つは,自分の考えや感情を上手く相手に伝えることである。しかし,近年では人間関係の希薄化もあり,自分自身の感情や考えを上手く表現できない傾向にあるとされている。,廣岡(2002)は,ライフイベントの体験を通して獲得されるはずである社会的スキルが不十分であり,適切に自分自身の感情や考えを表現できない傾向にあることを指摘している。
金子・今井・加藤・常本・城 (2010)は,こうした傾向が特に青年期に多くみられるとし,現代の青年が表面的に楽しく円滑な人間関係を求めるあまり,過度に気を配り,遠慮して率直な自己表明および感情表出が行えない傾向にあるとしている。こうした現状を受け,昨今は,自分も相手も大切にする自己表現であるアサーション(平木,2005)が求められているともいえる。
しかし,「言わぬが花」という言葉があるように,気を配ること・遠慮すること自体は本来,日本文化において美徳とされてきたものである。中山(1988)は,日本人特有のコミュニケーションを「ぼかし」コミュニケーションであり,それは自他の感情に最大限の配慮を払い,お互いの考え方や感情をできるだけ一致させるように双方が歩み寄ることを原則としたものであるとしている。すなわち,自他の心情を害しないことを最優先して,言い方を丁寧もしくは曖昧にしたり,自己主張を抑えたりする。M・沢崎(2012)によれば,日本文化においては,自己主張をしないことが集団,ひいては社会に適応的なのである。そして,話し手が自己主張をしないことが美徳である以上,聞き手には話し手の主張を読み取ること,すなわち「察すること」が同様に求められる。遠慮と察しは表裏一体であるゆえに,過度な気を配り自己表明が行えないということは,過度な察しにより,相手を傷つけないと考えすぎるあまり過度に遠慮してしまうといえる。
日本文化的な観点では,遠慮すること・察することが美徳としてこれまで扱われてきた。しかし,先述の廣岡ら(2002)の研究によれば,過度に遠慮し,察することは,かえってマイナスの影響をもたらすともいえる。
ここには,遠慮・察しというコミュニケーションそのものが客観的に見て特定困難な行為であるため,一種のコミュニケーション・スキルとして扱われる側面と,個人または相手にとってマイナスの影響をもたらす側面との線引きがなされず,両義的に扱われているためだと思われる。柴橋(1988)は,非主張性の研究の中で使われた尺度について,非主張的な態度が,熟考による主張や引っ込み思案などが混在している可能性を指摘している。遠慮に見える行為であり,たとえそれが関係維持に役立っていたとしても,両者にとって適切な言動であるのか,それとも,話し手が言いたいことが言えず不適応さを感じているのかは判別が困難である。ゆえに,現代の青年が,金子ら(2010)の指摘の通り人間関係で率直な自己表明および感情表出が行えない傾向にあるとすれば,関係維持につながる「遠慮」したコミュニケーションがなされているどうかは不明なところがある。たとえ遠慮によって関係が維持されていても,その性質上,意図的なものかそうでないのかの判別は付きにくい,と思われる。
遠慮・察しという日本人特有の曖昧なコミュニケーションは,Ishii(1998)によって「遠慮・察しコミュニケーション」と概念化されている。そして,遠慮・察しコミュニケーションの実態を明らかにするために,小山・池田 (2011)は,「遠慮・察しコミュニケーション尺度」の作成を試みている。小山・池田は,対人関係の親疎による遠慮・察しコミュニケーションの傾向の違いを研究する必要があるとしている。
本研究では,この尺度を応用し,現代青年の対人場面において,スキルとして「遠慮・察しコミュニケーション」の測定を試みること,またパーソナリティや対人関係が,「遠
慮・察し」の傾向に違いがあるのかについて研究する。
2. 遠慮・察しコミュニケーションについて
他者に自らの意思を伝えるとき,相手に発する言葉を無意識に曖昧化して,細かな内容を受け手の解釈に委ねることがある。手塚(1993)によれば,日本人の理想的なコミュニケーションは,言わなくても分かることである。いわゆる「以心伝心」である。そのため,話し手における「遠慮」と聞き手における「察し」が相互同調的に働く。中西(2005)は,自分が相手に伝えたいことの全体から,その一部を「引き算」するのが「遠慮」,逆に,そのマイナスされた部分を「足し算」で補完するのが「察し」であるとし,「察し」が「遠慮」を補完することを述べている。つまり,メッセージの送り手は受け手による補完を期待してメッセージの意図を薄め,受け手もまた,意図が薄められていることを知り,言語化されなかった送り手の真の意図を読み取るのである。
このようにお互いが察し合う背景には,対人関係の維持を第一に考えているからと考えられる。小山・池田(2011)は,遠慮・察しコミュニケーションが調和的な対人関係の維持を前提としていること,そして一方が摩擦を回避するために,本来の意図を曖昧化したメッセージを送ることを示唆している。
石黒(2006)は「察し」が有用性を持つことを,多文化関係学の観点から語っている。石黒によれば,「察し」が他者を思いやり,他者の共感や同情心を示すといわれている。共感や同情がなされるまでには,相手のメッセージを補完し,発展的に解釈しようとする推察が働く。多文化的な状況では,複数の意味やコンテクストが混じり合い,日本社会のように一義的な意味を持つことが少ないだろう。ゆえに,多義的な意味を想像し理解なければならない。そこで,「察し」が持つ推察力や他者指向的な姿勢が効果的に働く,と石黒は結論付けている。石黒の研究はあくまで多文化的状況を想定したものであるが,推察力や他者指向性の高さが,状況にあった適切な「察し」コミュニケーションにつながる可能性を示唆している。
一方,遠慮については,小山・池田がその情報処理過程において「他者への配慮」,すなわち利他的動機に基づいて曖昧なメッセージが送られると主張する一方,「自己に向けられる評価への配慮」すなわち利己的動機もまた,曖昧なメッセージが送られる原因であることも示している。これは,自己に向けられる評価への配慮のために行われる謙遜や自己卑下といった自己呈示が,遠慮・察しコミュニケーションと同様に,対人関係での摩擦を避けるという効果をもたらすためであると考えられる。
3. 親密さとコミュニケーション
「遠慮・察し」のいずれのコミュニケーションを用いるかは,一般には相手との親密さが関係していると考えられる。たとえば,とくに親密ではない相手や初めての相手との会話では,とりあえず丁寧なものの言い方が推奨されるし,相手の反応も見ながらの会話となるため,「遠慮・察し」が多用されると考えられる。一方親密な関係であれば,抵抗なく自分の主張を明確に言うことができると考えられる。つまり「遠慮・察し」は必要ないということである。
ところで注意すべきなのは,「遠慮・察しコミュニケーション」の規定要因は親疎の違いだけではないということである。中山(1989)は,「遠慮・察しコミュニケーション」と類似する「ぼかし」コミュニケーションについて述べているが,これが発生する要因を自他の過剰配慮としていること,そして過剰配慮が心理的距離や力関係・利害関係,タテマエとホンネといった局面などの状況に強く依拠することを指摘している。そこで,親密さと遠慮・察しコミュニケーションの関係を見るためにはこの状況依拠性を統制しておく必要がある。
笠原(1977)は,まったく赤の他人でもなく,家族のような親密で近い間柄でもない人間関係を「半知り」的な人間関係と呼び,この半知り的な人間関係が最も対人恐怖を生じさせると述べている。ゆえに,日本人のコミュニケーションにおいても,過剰配慮が最も生じるのは半知り的な人間関係であると中山は述べている。半知り的な人間関係は,言い換えれば,中山が言うところの「ソト」の人間関係であり,学校や職場,近隣の人々などに生じる関係性である。過剰配慮が遠慮・察しコミュニケーションに強く関わるのであれば,遠慮・察しコミュニケーションの特徴が最も顕著に表れるのは「半知り」的な人間関係だと考えられる。そこで,青年期を対象にする本研究では,関係性を大学の友人関係に統制し,それも親しい場合と,出会ったばかりで深い関係を構築できていない関係を想定する。
もう一つ統制しなければならないのが,力関係・利害関係をもたらす上下関係である。先輩・後輩という関係の場合,前者に対しては遠慮がちになるだろうし,後者に対してはある程度無遠慮にふるまうことが予想される。本研究では「友人」関係に限定するため,先輩や後輩を想起させることは少ないと考えられるが,念のため「同期の」という言葉を付け加えて検討する。
さらに,親密性のような相互関係以外にも,個人が親しい関係を築きたいと思うかどうかといったパーソナリティにも左右されるだろう。遠慮・察しコミュニケーション尺度は他の研究に使用されている例が少なく,遠慮・察しコミュニケーションを規定する個人の特性との関連にはあまり着目されていない。もともと対人的な場面で積極的に相手と関わろうとする人と,それほどでもない人とではどちらのコミュニケーション方略をとるかは異なってくると考えられる。
そこで本研究では,個人特性を測る尺度として対人的志向性尺度(斎藤・中村,1987),ENDCOREs(藤本・大坊,2007),Kiss-18(菊池,1988)を取り上げて検討する。
斎藤・中村の対人的志向性尺度は,Swap&Rubin(1983)が作成した対人的志向性尺度を邦訳し,信頼性・妥当性を再検討して完成された尺度であり,“人間関係志向性”“対人的関心・反応性”“個人主義傾向”の3因子を検出している。また,Swap&Rubinによれば,“自分自身に直接影響を及ぼすような他者の行動に対する反応性”“他者がどんな人物であるかに関する関心”“社交性などに関するその他の項目”の3領域からなっている。対人的志向性という概念自体は,Rubin&Brown(1975)が実験的研究を経て導出した概念であり,彼らによれば,「対人的志向性の高い人は,他者との関係の対人的側面に敏感に反応し,他者の行動の多様性に関心を持ち反応する。」「対人的志向性の低い人は他者との関係の対人的側面には敏感には反応しない。」としている。したがって,対人志向性尺度はもともと,友好な対人関係の構築を望もうとするパーソナリティを測定する尺度ではなく,その前提としての,他者に対する反応性・関心性を測定する尺度,といった意味合いが強い。つまり,たとえ対人的志向性が高くても,それが対人関係を築けることをそのまま証明するとはいいがたい。しかし,第一因子の“人間関係志向性”は“日頃から人間関係を大事にしている”“人付き合いがよい方だと思う”などの項目から成立しており,友好的な対人関係の構築を測定する尺度として扱うことができると考えられる。また,第二因子の“対人的関心・反応性”は,“人からの批判が気になる”“微笑みかけたり嫌な顔をする人が気にかかる”などから成立しており,いずれも他者からマイナスの評価をされることへの回避が含まれているといえる。小山・池田が指摘したように,自己に向けられる評価への配慮は,遠慮・察しコミュニケーションがなされる一因であることからも,遠慮・察しコミュニケーションの傾向を見るためには,“対人的関心・反応性”を本研究で扱い,その高低を調べる必要があると考えられる。
ENDCOREsとKiss-18は,対人的志向性尺度とは違い,いずれもスキルを測定する尺度である。
大坊(2007)は,それまで数多くの研究によって多様に定義づけられたコミュニケーション・スキルを包括し,上位からストラテジー(文化や社会への交流・適応),ソーシャル・スキル(社会的相互作用),コミュニケーション・スキル(直接的コミュニケーション)の3つの階層構造として捉えている。最下層のコミュニケーション・スキルに該当しているのがENDOCOREsであり,その中には “解読力”など,遠慮・察しコミュニケーションの概念と重複しているものも含まれている。しかし,ENCOCOREsはあくまでも基本的なコミュニケーションスキルであり,独特の日本文化を背景としている遠慮・察しコミュニケーションとは区別して考えるべきであろう。大坊は,階層の3つの違いを,「そのレベルに応じて,文化や社会に共通する汎用的な能力か,それとも特有の状況に対する具体的な能力かという多様性の違いがある」とし,文化・社会に特有のスキルをより上位に位置付けている。よって,遠慮・察しコミュニケーションはストラテジーに該当すると考えるのが,ここでは自然であると思われる。
KiSS-18は,対人関係を円滑にする,社会的なスキルを測る尺度である。ENDCOREsはコミュニケーションに限定されたスキルであるが,KiSS-18はストレスの対処や仕事の処理など,社会で生きていくためのスキル全般をを示している。
本研究では,柴橋の指摘をふまえ,「遠慮・察し」をスキルとして効果的に使われている場合(例:熟考による主張)とそうでない場合(例:引っ込み思案)の二種類に分けられるものと考えた上で,遠慮・察しコミュニケーションの傾向の違いの検証を第一の目的とする。
また,既にある関係性だけでなく,仲が良く親しい関係を望んでいるのか,それとも深い関係よりも,他人に悪く思われたくない関係を望んでいるのかといった,対人関係の在り方におけるパーソナリティや,対人関係を適切に築き上げられるかどうかといった個人的なスキルもまた,遠慮・察しコミュニケーションやアサーションの生起に関わると考えられる。そこで本研究のもう一つの目的として,斎藤・中村(1987)が作成した対人的志向性尺度と,藤本・大坊(2007)が作成したコミュニケーション尺度であるENDCOREsから関係調整因子を用い,個人の対人志向性と関係調整能力と遠慮・察しコミュニケーションおよびアサーションとの関連について検証する。その際,次のような仮説を設定し,これを検証する形で本研究を進めていく。