問題



 子どもの描画は大人のそれとは異なる特徴をもつ。ただぐるぐると線が何重にも重なっているだけの線画や、目や口がついていてにっこり笑っているお花や太陽の絵、円の下に2本棒線が出ているだけのパーツで表された人間の絵、など、特徴的な絵が無数に存在する。このように一口に子どもの描画といっても、その描画は質的にすべて等しいわけではない。子ども達は、様々な発達プロセスを経て、徐々に高度な描画を獲得している。子どもの描画発達は段階的にすすむが、Luquet(1927/1979)はこの発達プロセスを「写実性」の面から考え、段階的に表した。
 Luquet(1927/1979)は子どもの描画に、「偶然の写実性」「出来損ないの写実性」「知的写実性(知的リアリズム)」「視覚的写実性(視覚的リアリズム)」という4つの段階を見出した。      
子どもの絵の最初の段階は「偶然の写実性」である。この段階はなぐり描き期とも呼ばれ、一般的に無意味な描画、すなわち、なぐり描き(scribble)を特性としている(山形,1988)。具体的には、クレヨンを自由に叩きつけて点を描いたり、手当たり次第ぐるぐると円形を描くなどである。この場合、絵は絵として意味をもたず、また意思的な表現ではない。手が動くままに表される線画といえる。「偶然の写実性」は2歳半ごろまで続く。
次の段階は「出来損ないの写実性」である。リンゴや家、人間など、意味のあるものを描くようになるが、様々な能力の欠如により、写実的には描けない段階である。例えば、運動機能が発達しておらず、思い通りの線を描くために手をどう導き統制したらよいのかわからない、また、注意力がなくひとつの部分を集中して描くと他の部分を描き忘れる、などである。この時期の絵は、顔を描いても鼻や口を忘れて描いていなかったり、プランニングができず描いた頭の外に目がついていたりする。「出来損ないの写実性」は5歳ごろまで続く。
そして次に「知的リアリズム」の段階へ移行する。この段階になると「出来損ないの写実性」段階で欠如していた能力が獲得され、写実的に描けるようになる。しかし、大人とは異なる描画を行う。この段階において子どもは、絵に描かれるものの特性は細部に至るまで全部描きこまなければならないと捉えている。その対象について知っていることは、たとえ子どもの目に見えていなくても、全て描こうとする(藤田・後藤・丸野,1993)。子どものもっている内的モデル、つまり描画対象に対するイメージを中心として描かれるため、視覚的な見えとは無関係な絵が表出される。この時期の子どもは、実際には見えていない木の根の部分まで描いたり、家の屋根を剥がした間取り図のような構図で、家具や食器や部屋の配置など家の中にあるものを事細かに描いたりする。「知的リアリズム」は6、7歳まで続く。
そして最後に「視覚的リアリズム」の段階へ移行する。この段階では、見え通りに絵を描くことができるようになる。これがいわゆる大人の描画である。子どもたちも8、9歳ごろを始期として、単に自分の絵が何かわかるというだけでなく、視覚的にリアルでありたいと思うようになる。人物画は特定の人に似ているべきだと考えるようになり、静物画や風景画は実物に似ているべきだと考えるようになる(Cox, 1992/1999)。
以上のように、Luquet(1927/1979)は子どもの描画を4つの段階に分けて捉えた。この中で、特に注目され、研究されてきた分野が、知的リアリズムから視覚的リアリズムへ向かう発達プロセスである。描画対象の「見え」に着目し、様々な条件設定の下、知的リアリズムから視覚的リアリズムへと進む発達プロセスが検討されてきた。例えば、Thomas & Silk(1990/1996)によると、 Freeman & Janikoun(1972)は、5歳から9歳児に、子どもたちから取っ手が見えないように配置したカップを示し、それを描くよう求めた。このカップは正面の部分に花柄が描かれており、その花柄は子どもたちから見えていた。すると8、9歳児はカップの取っ手をつけない傾向が強く、また絵の中に花柄を含めて描いた。しかし7歳児まではカップの取っ手が見えないにもかかわらず、取っ手も合わせて描く傾向が強く、またすぐ目の前に見えている花柄を無視して描かなかった。この7歳児までの子どもにみられるような、子ども特有の描画特性は知的リアリズム(intellectual realism)と呼ばれる。知的リアリズムとは、対象物についての中心的で明確な事実を含む内的モデルを元に絵を描く描画段階である。7歳までの子どもはカップを描くことを求められた時、目の前にある花柄のカップではなく、自分自身の中にもっている「カップとはこういうものだ」というイメージ=内的モデルを元に、カップを描画した。だから、内的モデルとして存在するカップには、花柄などついていないので、カップを描画する時も花柄は描かなかったのである。また、内的モデルとして存在するカップの取っ手は、左右どちらかに見えるようについているので、カップを描画する際も実際に目の前にあるカップの取っ手は見えないのだが、内的モデルに従い取っ手をつけたのである。一方、8歳児は取っ手を付けず、花柄を描くという見え通りの描画、いわゆる視覚的リアリズム描画を行うことができた。
一般的には8、9歳ごろに知的リアリズム段階から視覚的リアリズム段階へと描画が発達すると考えられている。しかしそれは子どもが自発的に描く描画についてであり、実験統制下では、8、9歳よりもっと幼くても、視覚的リアリズム描画をすることができるとされている。また他にも、描画の発達段階に影響を与える要因は多々ある。例えば、田口(2001)によると、Barrett & Bridson(1983)は、「これを描いて」「正確に描いて」などと言語教示をさまざまに変える実験を行った。その結果、教示を明確にするほど、年少の子どもでも見え通りの視覚的リアリズム描画が増加することが示唆された。また、Thomas & Silk(1990/1996)によると、Davis(1983)は、取っ手が見えていないコップと、取っ手が横に見えているコップを2個同時に呈示し、見え通り描くよう教示した。その結果、取っ手が見えているものと見えていないものという対比効果によって、5、6歳の子どもでも、コップを見え通りに描くことができた。
このように、知的リアリズムから視覚的リアリズムへという描画の発達的変化について、今まで多くの研究がなされてきた。その中でも、特に注目できるのは田口(2001)である。田口(2001)は、描画対象に関する知識量を操作することによって、知的リアリズム描画を検討した。描画対象には人形が用いられた。対象児は4歳児、5歳児、6歳児で、全体条件群と部分条件群に分けられた。全体条件群には人形の顔や前側も含めすべての面を見せた。その後人形の背側を向けて対象児に呈示し、見え通り描くよう教示した。一方部分条件群には人形の背側だけを見せた。そしてその呈示状態のまま、見え通り描くよう教示した。その結果、部分条件では、年齢があがるに従って見え通りの背側を描くようになることが示唆された。また全体条件では、4歳児と6歳児は部分条件と同じような割合で背側を描く対象児がいたが、5歳児だけ部分条件と異なり、背側を描く対象児が少なく、前側を描く対象児が多くなっていた。ここで田口(2001)は人形の顔の描き方に着目し、描画対象の人形の顔の特徴をとらえている描画と、描画対象の人形の顔とは異なる顔を描いた描画の2種類が出現していることに気付いた。人形の顔に着目してみると、4歳児では描画対象の人形の顔とは異なる顔を描く描画が多いのに対し、5歳児では描画対象の人形の顔の特徴をとらえている描画が多い傾向があることが確認された。つまり、4歳児は「人形の顔とはこういうものである」という自分の内的モデルに従って、「ものを自分が知っているように描く」まさに知的リアリズムと考えられる描画を行った。一方5歳児は教示通りに見え通りの背側を描けたわけではないが、4歳児の知的リアリズム描画とはやや異なる描画を行った。それは、「人形の顔とはこういうものである」という自分の内的モデルに従ったわけではなく、「この人形の顔はこういうものである」と、描画対象固有の情報を取り入れた描画であった。田口(2001)は両者は同じ「ものを見える通りに描けない」知的リアリズムではあるが、質的な違いを考慮し、4歳児の描画を標準型、5歳児の描画をコミュニケーション型として区別した。そして描画発達段階を、標準型の知的リアリズムから、コミュニケーション型の知的リアリズムへ、そして視覚的リアリズムへ、という新しい分類により詳細に示すことに成功した。
 以上のように田口(2001)には知的リアリズム描画を標準型とコミュニケーション型に分けることによって、より詳細に描画の発達段階をとらえたという意義があるが、その田口(2001)には不確定な点が存在する。それはコミュニケーション型の描画反応の発生要因を伝達意図と解釈している点である。見え通りではないが、対象固有の情報を描画に含んだ理由は、この人形はこのような顔をしていたのだということを誰か他の人に伝えたいという意思が働いたからだ、と考えられている。この伝達意図がコミュニケーション型描画の発生要因だと考えられる理由として、描画後に質問した「どうしてこのように描いたか」の回答を取り上げている。コミュニケーション型の描画反応をした対象児は、この質問に対し、「こんな顔だったから」と答える割合が多かった。田口(2001)はこの「こんな顔だったから」という言語反応の中に伝達意図が含まれると解釈した。「こんな顔だったから」という回答には伝達意図が含まれる可能性がないわけではないが、「こんな顔だった」という描画対象の事実を表現したにすぎないとも読み取ることができる。また、この「こんな顔だったから」という描画理由の分類は、八木・中澤(1986)を元に作成されている。八木・中澤(1986)は、カップの取っ手が対象児から見える条件と見えない条件を設定し、見え通りに描かせる実験を行った。取っ手が見えないカップを描く条件にもかかわらず、取っ手を描いた対象児がみられた。この場合、取っ手を描いた理由を尋ねており、そこでは、「(カップの取っ手は見えないが)取っ手があることが分かるように」という子どもの発言が記録されていた。この発言からは、他の人が描画を見て理解できるようにとの意図が読み取れる。この八木・中澤(1986)の分類基準を用いたのであれば、田口(2001)では「こんな顔だったことが分かるように」という意味合いの項目であるべきだと考えられ、この項目であれば、伝達意図があることを示すことができると思われる。よって、田口(2001)では「こんな顔だったことが分かるように」ではなく、「こんな顔だったから」という言語反応を分類基準とし、この分類基準を使用し他者伝達意図があることを示唆しているので、この結果は必ずしも正確であるとはいえないと考えられる。しかし、そもそも実験統制下のように、描画対象を示され、教示を与えられて描く絵に、他者へ向けた伝達意図が含まれるのであろうか。描画対象を呈示した実験者本人へ向けて、この人形はこのような顔をしていた、などと伝えたいとは考えにくい。伝達意図があるとすれば、自発的に描いた絵にこそ含まれるものだと思われる。
 以上の点から、コミュニケーション型の描画反応に他者伝達意図は含まれないと考えられる。この点について明らかにするために、本研究では他者に描画を見られる条件と誰にも描画を見られない条件を設定し、その差を検討する。他者に描画を見られる条件は、描画前に子どもに描いた絵を後から見ることを告げるもので、誰にも描画を見られない条件は、描画前に子どもに描いた絵は誰も見ないことを告げるものである。子どもが描画によって情報を伝達しようとする意図をもっているならば、その情報の受け手である他者の存在が必要となる。よって、他者に描画を見られる状況下でのみ、伝達意図が働くことが予想される。逆に、他者に描画を見られない状況下では、伝える相手がいないので、伝達意図ははじめから存在することはできない。伝達意図がコミュニケーション型の発生要因と考えるならば、伝達意図が存在しないということは、他者に描画を見られない状況下においてはコミュニケーション型の描画反応は表れないということが予想される。端的に言うと、コミュニケーション型知的リアリズム描画に他者伝達意図があるのであれば、他者に見られる・見られないという条件を設定し絵を描かせれば、条件により描画に違いが表れるであろう。他者伝達意図がないのであれば、他者に見られる・見られないと条件を設定しても、描画に差は表れないであろう。
以上から、本研究の目的は、コミュニケーション型の描画反応の発生要因は他者伝達意図であるのか、他者伝達意図でないとすれば何が要因となっているのか、を明らかにすることとする。仮説としては、他者に見られる・見られない条件を設定しても、描画に差は見られない、ことが考えられる。
 



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